象徴二 地は其者の乳母なり。



野卑なる狼の乳房にロムルスは育てられり

されどもユピテルも山羊にかしづかれり

あえかなる哲学の児には 大地がその乳房にて乳を与ふ

とるにたらぬ動物の かくも偉大なる英雄を育むならば

かく断言すを躊躇すべきか

養母なる大地の球体に抱かるる者 偉大に育たぬことがあろうかと


 *ペリパトス派やその他哲学者たちの透徹した思考は、以下のような主張をなしている。*「栄養は、栄養されるものに転化しそれと似たものとなって消化される。前もってそうなるのではなく、それは栄養が、栄養されるものから作用を受けた後からである」この真理にはもはや反駁の余地はない。もともと栄養はそれを摂取するものと似ているか、もしくは同一のものであるはずなので、これを根本から転化させる必要はないだろう。あらかじめ転化させてしまうのなら栄養されるものとの同一性、類似性は失われてしまいかねない。それに栄養されるものとの同一物、類似物へと転化されるはずのない木材や石材のようなものが、栄養として摂取されるようなことは決してない。前者の命題は無意味であるし、後者は自然に反している。
 乳飲み児が動物の乳でも滋養されうるのは、自然の原理に矛盾することではない。その乳は、乳飲み児自身の類似物質ヘと変わる。とはいえ、いかなる異種の生物からなどよりも、まず母親から栄養素を吸収することに、よりよい効果が期待される。母親からの授乳こそは幼児をつつがなく強壮にみちびくであろう。自らの母親の乳でたゆまず養われ育まれるならば、子のきだてもならわしに適ってそだつものである。しかし合わぬものを強いられれば、そこに反目も生じかねない。このように、類は類を悦ばしく受け容れ、暗黙のうちに承服し投合して、よろず歩調をあわせることができるのである。医師らは以上のように結論しているし、これぞ自然の普遍調和である。むろん同じことが哲学者の自然の作業にもいえる。哲学者の作業は母胎のなかの幼児という構造のなかで、ひとしく自然に統べられている。そして父も母も乳母とても、この類似の法に帰され、どんな動物たちの発生よりもそれは自然なことなのであって、いっこうに人為的なところはないのである。
 とはいえ、捗々しい人為のもとでならば、ふたつの種子は互いに結合しうる。段階的な改変を経ることで、動物種と人間種ですらも結び付けることは可能なのである。それは胎児をも生じ、生長して生命と躍動を獲得し、そして乳にて養われる。一方で妊娠受胎期の女性には、すべからく調整された適温、食餌、飲物、休息などが不可欠であって、ときには妊娠中絶を起こす場合もあるが、このように孕まれた胎児が破壊されることのあるのは六の不自然において診察され、これは医者の技術に従って処方される。こうしたこともまた人為的なことではある。このような流儀に従って種子は哲学者の術のもとに互いの結合を遂げねばなるまい。しかし互いの結合というものは、雄鶏、雌鶏の種子が互いに生存しつつ卵のなかに包まれるようなもので、どこにでも見受けられる一般的なことでもある。哲学者の術とは、この動物種の生成のようにまったく自然のことでなければならない。
 哲学者らの主張には「東方よりきたる者、西方よりきたる者は、ともに一なるところへ帰する」というものがある。これは熱の制御や滋養法に従って容器中へと物質を結合するということに他ならない。たしかに容器の内部でなされるこの作業は人為といえる。だが、これらは雌鶏や農婦が、さる快適な場所に巣をつくるごとくに通俗、普遍のこととなんらの相違もない。産卵することも雛が孵化することもまた同様ではなかろうか。炉で調整された熱も、肥料の腐敗も、太陽と大気も、母胎の内部も、いずれのおもむくところたりとも熱とはすなわち自然の現象である。エジプト人たちもこのように、火炉のもとの術によって自然熱を卵の孵化のために制御し術を執行したのである。絹虫の種子も、雌鶏の卵も、処女の胸のあたたかさによって孵化するといわれている。それゆえ、術と自然は合意して手を結び、互いが互いを司る。それでもやはり自然はいつも女王であり、人為の技術はその侍女なのである。
 さて、いまやなぜ《地》などが《哲学の幼子の乳母》と呼ばれるのかという疑念がここに残る。尤も、乾いた元素である《地》は、果汁の欠如した状態を意味する。だから、これはやはり乾燥や冷淡といった、そういう性質に相応しきものに属しているのではなかろうか。しかし、ここではや抽出されたる《地》の元素と解されるものは、実は《地》の元素ではなく、そのなかに四大元素のすべてを内包するところの大地の総体であるというのが回答となるだろう。ここで《地》と云われているものは、実は天空の、あるいは天上的な乳母なのであって、幼児を晒し開き洗い湿らせるものでなく、凝固し固定し染色変成して、体液と血液に充足したものになす、ということなのである。栄養はすなわち、長さ、幅、奥行におけるその拡大を意味していて、それは体の全体的規模のすべてを拡大させる。この観察は《地》によることではじめて哲学の幼子に供され貢献される。だから卑俗の意味のもとに《地》を其者の乳母の名で呼ぶのは賢きことではない。優れた地の果汁は他の類の乳とはことなる特質を秘めていて、その最も有効なる徳目が、ここに養われるものの性質を力強く改革する。あたかも狼の乳がロムルスの肉体を大胆なものにし、戦略に長けた性質へとそだてあげたごとくに。





 
 
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