象徴三 行きては洗濯女の仕事に倣へ。



秘められし教義をば明かさむと欲する者 怠るべからず

己を助くべきよろづより 手本をば授かるべし

其方には見えぬか 熱き水の注ぎ込まるによりて

手慣れたる女たちの洗濯の 如何に汚れたるを濯ぐか

かくのごとき女たちの手本に従へ

さすれば汝 術を失することなし

黒きものの沈澱を 水は洗い去る


 麻衣が垢づいたり泥土、《地》によごれれば、それを洗い浄めるのはこれに次ぐ元素すなわち《水》である。かくして衣服は《風》へと晒され、汚物と混ざりあった湿気をぬきとるのは第四の元素としての《火》すなわち太陽光である。これが幾度も繰り返されるほどに、染み汚れは消え去って清潔になる。このような洗濯女の営みは自然から学ばれたことであり、*イサク・ホランドゥスも示唆しているように獣の骨は繰り返し雨に濡れて陽の熱に乾かされることで完全な白さヘと達してゆく。同様のことが哲学の物質にも認められ、適切な液体の注入によれば、いかなる排泄物やら卑俗なるものやらが含まれようとも、とりのぞかれて浄められ物質の総体はきわめて完全かつ純潔なものとなりうる。◯焼、昇華、分離、蒸留、沈澱、凝固、固定、休止などのあらゆる化学操作は、ただ洗浄ということによってのみ実行されるもので、これら術のすべてをつらぬくはすなわち、不純物を液体にて洗浄する者、というのとまったく同義である。*『哲学者の薔薇園』に記された「神々しき王子の肌着、汗にて汚れたれば火にて洗はれ水に燃やさる、火と水は互いの特質をば交換するらし、されども哲学の炎をば卑属のそれと同種のものと考えてはならぬ」という言辞は《哲学の水》について云ったものである。
 活発なる石灰、生石灰また*ギリシアの炎などは、火で燃える物体の自然現象に反して水に燃立ちはするもののこれに絶やされることがない。それゆえ*樟脳の類は水に燃えると断言することができる。*アンセル・デュ・ボエティウスによれば、火に焼べられた*黒玉石を冷却するには水よりも油によるが容易いという。これに混合された油が燃えさかる物体を窒息させるようである。しかし水は油と混合しないので、燃えさかる物質は水へと完全に没入されてこれに圧倒されなければ、火に途を譲ってしまうことになる。さらに油が水面を泳ぐのはまさに石油も同じなのであって、*ナフタや石油などの可燃物質を屈服させるに水はまったく役に立たない。リエージュ地方の地中に産する石炭は、地下坑道で着火されてしまうと水では消すことができず《地》そのもの、いわば土を投げかけることで鎮火するという話も伝わっている。*コルネリウス・タキトゥスはそういう火について、棒で叩いたり脱いだ衣服を投げ付けることで消すことができると記している。
 それゆえ火や可燃性物質あるいは消燃性物質には、かなりの多様性があると考えるべきだろう。また酒類・乳・酢・ワインの酒精材・硝酸・*王水・一般的ないわゆる水も、炎へと投入される際にはひじょうな相違をみせる。燃え立っている物質そのものには火によく耐えるものもある。たとえば高級な麻の服は古代人たちにもとても重宝されたが、その汚れは火に浄化され火で焼き払われたという。火蜥蜴の髭についての伝説では、それが不燃性物質ゆえにランプの芯の材料となるというが、これは信ずるに値することではなかろう。しかし滑石(タルク)や綿毛やアルミなどからつくられる織物については、その存在を確固に断言する者たちがいる。これはアントワープの巧みな女工が製するもので、火にもさらすことができるらしい。けれども羨望の的となったこの技術は、その女工とともに失われてしまい、後にそのような特性は決して発見されることがなかった。我々はもはやここで可燃性物質については問題にしないことにしよう。
 哲学の物質の調合についてはいつでも、以上のようなあらゆる相違を念頭にして熟考しなければならないし、また、そこに云われている火、水、物質そのものも卑俗のものではないと心得ねばならない。それらの火は水であり、それらの水は火でもある。《水》が洗浄するということは、すなわち燃焼することと同義であって《火》にも同じような働きがある。洗浄さるべき衣服に、上質の麻とおなじ性質があるのは議論の余地なきことである。けれどもそれの錬成とその調製の技術は誰にも知られていない。この麻の洗浄のためには、オークの灰やそれらの塩ではなく、金属種からの灰汁が造られねばならず、それは他の何よりも抜きん出て耐久性がなければならない。それは卑属の水であってはならないが、しかし水瓶座の符号のもと、水は凝固して氷や雪となる。沼地や湿地に淀んでいる水などよりもずっと純粋な分子が存するからであって、その結果として、哲学の物質の深奥へとよりよく浸透し、それを腐敗や暗黒から洗浄し浄めるのである。

 
 
inserted by FC2 system