象徴五 女人の胸に蟇蛙をあてよ。をんなは死ぬまで乳をあたえ、ひきは乳にておおきくなる。



冷やかなるひき 女の胸におしつけよ

其奴は稚児のごとく源より乳を吸ふ

其奴をば いとどおほきく 膨らませ

 よはりて死ぬる 女はすておけ

極めたる医薬をば、其奴よりつくるべし

ひとの心臓より毒をぬき そを破却より守らむ


 賢者の術は、男性・女性のなすところ以外のなにものでもない。これはすべての哲学者たちの合意を得ているところである。男性の役割、それは女性をうみだしこれを統べること。女性の役割とは、子を孕んでこれに吹き込み、産出しては育成すること。かつ夫の制御によく従うことである。いまだ産まれ出でやらぬ、その孕める胎児をば、まずみずからの血によってはぐくみ、それから乳を与える。自然法則は、あえかなる幼児のために、柔らかく、しかも釣り合いのよくとれた滋養素をば、母親の胸にしつらえた。これから始まる命のみちゆきの最初の食料、糧として、それは彼の到来を待っている。やがて歯が生じ、パンをも食せるようになるが、そうした供給の仕方への適合が整うまでは、まさに乳によってこそ彼ははぐくまれ、成長し、大きくなる。かくして彼は立派に離乳してゆく。これから自然法則によって提供されるであろう固形の食物が彼を待っている。
 けれどもここに哲学者らの云うには「女性の胸に当てられねばならぬは蟇蛙。そを子として彼女がみずから乳をあたえ、滋養分を与えるべし」これは悲惨かつ恐怖のありさまである。幼児のために用意されたはずの乳が、蟇蛙へと与えられねばならぬなどとはじつに不徳なることだ。おぞましき有毒の獣なぞひとの性質には反するものであるはずなのだ。また大蛇や龍が雌牛の乳首を吸うなどという話も、ものの書物や話柄によくのぼる有名なことではある。おそらくは蟇蛙も、機会こそあればそういうことをするやもしれぬ。
 また蟇蛙について重要なのは以下の説話であろう。農夫が蟇蛙に、その口唇をとり憑かれてしまい、麻痺昏睡に陥ることがあるが、これはいかなる措置によれども除かれないのである。ちからずくでなら、ただ生命を危険に晒すだけかもしれぬが、蟇蛙が攻撃と防御の武器として使う毒素を吐き出させることができるだろう。しかし、この悲惨な男のために見い出された有効な医療は、蟇蛙にたいしての抗力もっている蜘蛛からのものであった。蜘蛛と蟇蛙は、ひどく互いを憎みあう。件の農夫は、蜘蛛が一面に巣網を茂らせたところへと運ばれた。蜘蛛らは蟇蛙を見るやいなや、その背後に舞い降り、その尖足に蟇蛙をつかみ挟む。これ自体はなんら傷つけることはないが、蜘蛛はふたたび舞い降りてきては、より猛烈に再度の攻撃をしかけるのだ。かくするうちに、みるみる蟇蛙は腫上がって、農夫にはなんの危害も加えることなく取れて死んでしまうのである。
 我らの主題では、しかし、まったく反対のことが起こるのだ。蟇蛙は口唇に取り憑くわけではないのだが、ここでは女性の胸に押し付けられるわけであり、その乳でもって蟇蛙は、並外れた能力と巨大化を得ようと増進するのである。これに対して女性のほうは精力が尽きてゆき、疲弊して死ぬことになる。蟇蛙の毒は胸部の血管を伝ってたやすく心臓に達し、侵入して破壊する。これはクレオパトラの例に明らかであって、自殺をはかつて毒蛇を胸にあてがった彼女は、その自発的な死によって、敵の手に陥ることなく、彼らに屈服するを防いだとも考えられる。*『賢者の一群』でテオフィルスも、龍が女性に結ばれることについて触れている。
 けれども哲学者たちは、有毒の爬虫をば女性の胸にあてがうような残酷なやからなどではない。いかなる者にも、そんなふうに思わせぬよう、かく知られねばならぬ。ここでいう蟇蛙とは、この女性の産子すなわち息子であって、怪物的な生まれのもとに出産されていても、母乳で育まれねばならぬのは、これ生得の権利である。そして母の死ぬべきさだめは、息子の望みなどではないのだ。其奴が、女の胎内に形成され、その誕生の刻まで彼女の血で育まれねばならないとすれば、其奴はその母を毒牙にかけることなどはできないはずだからである。蟇蛙が女性から生まれるなどということは、まことに不吉なことではあるが、他方でそれは、我らの学問においては起こりうる必定なのだ。英国の作家*ニューベリーのウィリアムは云う(いかに彼が信頼に足るか、それは他の者らが判じているところである)ヴィントニア司教区のある採石場では、大きな岩が割られると、なかに活きた蟇蛙が見つかることがあり、黄金の鎖を伴っている。司教の命令によってそれは、悪い兆しをもたらさぬようにとの計らいで、同じ場所に隠されて、永久の暗闇に埋められるという。ここにいう蟇蛙は、その黄金をともなう点に注目するべきではあるけれども、うわべのみてくれに金鎖をもつわけではない。それは内的な性質としての黄金によって際立たせられているのだ。それは、*硼砂(ボラックス)、*亀鼈石(ケロニタス)、*天然石灰珪酸塩、*蝦蟇石(クラパウディナ)、*ガラトロニウムと呼ばれるような石である。だが、ここで石とみなされている蟇蛙はこれらを遥かに凌ぐ効力をもっていて、あらゆる動物の毒に抗しこれを中和するのである。かような医薬の力をもつ蟇蛙は、容器に収まるように、包み覆われるように金のなかに秘められており、それゆえにこそ、この力は傷ついたり破壊されたりすることがない。しかしこれは動物界から得られるものなのである。
 しかし地底の洞窟からとりだされたものである場合、石としてのかたちに整合されておれば、最も良き鉱物種から選び抜かれて使用されたそれは、心臓への医療となる。こうしたことから、哲学の蟇蛙はたしかに発見されるのだが(件の高名なる文人の主張したように)それは採石場からではない。その黄金は内に秘められたものであって、華やかさはうわべに顕われないのだ。そも、暗闇や秘められた場所に彼は潜んでいるというのに、いかなる目的のもとに蟇蛙は自身を飾らねばならぬというのか? それは、黄昏のなかで遭遇するやもしれぬ甲虫の眼に適うためか。また、いかなる地底の金細工職人が、彼に黄金の鎖を造らねばならないのか? 聖ルカの国から、あるいは大地そのものから立ち昇る緑の子供の父なのか、採石場からの二匹の犬なのか。以上のすべては、ただひとりの作家の詞に解するべきだろうか?

 
 
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