象徴八 かくと据へたる卵をば燃えさかる剣にて断ち割るべし。


世のいずこかに鳥の居り 他のいずれより崇高なり

其の卵をこそ見ひ出さめ たださやふに意に留めよ

卵白やはらかに黄金の黄身を包み込むところ ならはしのごとく

燃へさかる剣にて入魂の一撃をくだすべし

 火星にウルカヌスを導かせよ

かくして鳥は立ち昇る 其は鉄と火の征服者とならふ


 たくさんの鳥たちはその種類もまた豊富であって、数を詳らかにするは我々に容易でなく、名も知らぬものも数多である。さる物語は我々にロックという極めて偉大な鳥を語る。それは、とある年の一季節に海原の小さき島に現れる、象ですら空中に運べるほどのものということだ。インドとアメリカからは、それぞれカラスとオウムという異なる色彩の鳥が我々にもたらされた。けれども我らの哲学的関心はこのような鳥たちの卵を求めているわけではない。毎年エジプト人は鉄の武器でもってワニの卵を駆除し破壊してまわる。哲学者たちもまた卵を炎でもって責め苛むのだが、それは抑制を意図してのことではなく、むしろこれを生かし育むためなのである。そのようにすることで、そこには生命ある活きたヒナが産まれるので、それは損傷ではなくむしろ生成といえる。まるいかたちを奪い去ることでそれは卵であることをやめ、より高貴な形状を導入されては、ふたつの足をもち、空を飛ぶ(揮発性の)いきものとなる。卵のなかには雌雄ともどもの種子が互いに結び付いて、その甲殻に被い守られているのである。
 卵のなかでは、かたや卵黄はヒナの根本的な部位と内臓をかたちづくり、かたや卵白はそこへと栄養素を供給する。あるものを他のものへと変換する諸元素の循環法則を秘めている第一の動因として、加熱は外部からほどこされる。これが自然の誘導と潜在にもとづいて、あたらしい形相へと導くのである。《水》は《風》へ《風》は《火》へ、《火》はさらに《地》へと移行してゆき、それらが互いに結び付けば、星辰の影響によってそれらにあたえられていた各々の種の異相は失われてゆき、さる独特の、一個の鳥類となってそこから卵が産まれてくるのである。これがまさに《燃えさかる剣による一撃》であり、それは*ユピテルの頭部からパラスが生まれたときの、助産婦としてのウルカヌスの役割を果たすことでもあって、その斧が切り開いたごとくに、新生のヒナに経路を与えるべし、ということなのである。バシリウス・ヴァレンティヌスも主張していることだが、メルクリウスがウルカヌスに拘束されたのはマルスの命に因るのであり、彼が完全に浄化されて死ぬまでは釈放されはしなかった。しかしこの死は彼にとっての新しい生命の始まりでもあって、卵の腐敗あるいは死がヒナへとつづくさらなる命となるのとおなじことである。
 人間の生命もまた、その誕生から母の子宮での植物的な生命を経て世界の光のなかへと産まれ出てくれば、それまでとはちがった、より完全な生命を手に入れる。さらに地上での生命を終えれば、我々にはまだ完全永遠の生命が、この続きとして残されている。ライムンドゥス・ルルスはその著述の多くの箇所で、この燃えさかる剣を《鋭い槍》と呼んでいる。それは、槍や鋭い剣としての炎が物質を穿孔し、それらを多孔性で染み通りやすいものにするからである。だからこそ、それらは水に浸透され、溶解され、硬さを減じて柔らかく従順な、扱いやすいものになる。あらゆる鳥類のなかでもっとも大食である鵜はその胃袋のなかに長い回虫を有しており、それは《熱の道具》として本体に仕えている。魚に飲まれたウナギは針のようにその魚を内部から貫きとおし、あっというまに喰らい尽してしまうということがある。これは、いともみごとな自然の仕組であり、《熱》が貫き、貫くものはしばしば《熱の欠如》をもたらす。いずれと考えようとも《哲学の卵が打たれるべきこと》を《燃えさかる剣》としても不穏当なこととはいえまい。
 しかし哲学者たちは、むしろこれを《節度ある熱》と解しており、これが卵を抱きあたためるのである。『賢者の一群』のモルフォリウスの主張には「賢者らよ、ゆるやかな火にかけて最初の湿気を噴出させよ。こはいはば、若鶏の卵からの孵化とおなじことなり。炎が強くなれば、容器をたしかに密閉すべし、気息、その逃れゆく霊気が拡散してしまわぬように」というものがある。けれども《鳥の卵》とはなにものであろうか。同書にてモスクスが言うには「我、汝に言はむ、白き、星明かりの、きらめく物質より始めるより他はない。白き石、この白き物質こそは卵を孵化さすにうってつけのものである。けれどもそれは卵と称しうるものではないし、うちに鳥を秘めたる卵ではないのだ。」

 
 
inserted by FC2 system