象徴九 露に濡れたる庵に樹と翁とを封じよ。其の果実を食べ老躯は若返る。




叡智の園に聳へし樹 黄金の林檎を稔らす

其方 此樹を用ゐる者よ われらが翁も共とせよ

露に湿りし硝子の庵に ともどもかたく封じ込み

かやふに其等をそのままに幾数日 翁は果実を食みかへし

さすれば奇跡の起こりては 老人たりしは過去のこと

いまやふたたび若人にかへる


 長じて幅つき深みゆき、かく発達するものは例外なく、産まれ、育まれ、大きくなって成熟し、そして繁殖してゆく。けれどもそうしたものはまた衰えゆくものでもあって、どんな動物種や植物種も力を失い弱くなって滅びゆく。人間もまたおなじことで、完全な成熟に達したそのあとには衰頽が待っている。これは老年ということと同義であって、死に到達するまで眼にみえて力は減じられてゆく。この老化の過程は、油の不足で薄暗くなってゆくランプとよく似ている。ランプには三つのもの、すなわち芯、油肥、炎がある。人間で謂うところの芯は枢要部であり内臓と四肢である。油肥は基礎をなす湿性、炎は自然熱である。違っているのはただ、ランプの炎は明るく輝くが、自然熱はそういうものではないということだけである。それは火ではなく熱気そのものなのだ。また油肥はただ油質のものであるが、基礎をなす湿質とは粘性の生産の根本ともなるものである。だからこそランプは油の不足で絶えるので、そのようにひとは老化し、なんらの病を負わずとも萎縮し衰退し、いわば老衰して、歳をとって消耗すると、最後に待つものは墓である。*鷲は歳をかさねるほどに嘴を屈曲させてゆき、脱皮しなくてはものを喰えずに死んでしまうと言われており、また、鹿はその角を幾度も脱ぎ捨てることで若返るそうである。蛇もまた脱皮するし、蟹は甲殻を脱ぎ捨てる。しかしこのような例はほんとうの再生とはいえない。これらの基礎をなす湿質は回復されていないので、これはただ外観だけの刷新なのである。
 ひとに若さを回復しうるものは死を措いて他にない。というのも、死はそれに準じて続く永遠の生のはじまりだからである。しかしながら、さる処方によっては外見の形容のみならず、力の回復をまでも実現し、皺をのばし白髪を色づけ、かく真実の救済を見い出したと記す者たちもいる。こうしたことはライムンドゥス・ルルスが《第五元素(クィンタエッセンティア)》によって、またアルノー・ド・ヴィラノヴァが《服用金》を用いたことにも伝えられている。だが哲学者たちは「老人を若返らすには、その者を露の家に閉じ込めねばならず、そこで老人は樹木の果実を口にし、かくして若さを取り戻す」と述る。そのような樹木が自然界に存在しようとはまず一般に信じられることではない。さる樹木の果実ミロバラニス(奇跡の果実)の驚異が灰色の髪を黒髪へと回復し血液を浄化し生命を延長させるということに言及する医師らもあるが、これも信用を置くに足る言辞ではなかろう。
 *マルシリオ・フィチーノは*『学徒の健康保全に関する書物』のなかで、若く美しい女性の乳を吸うことを勧め、その一方で毒蛇の肉を食すことなどを勧める者もある。しかしこうした処方は齢を重ねることそのものよりも厄介な代物であろう。それら効能が確たるものであるにせよ、千にひとつの者ですら達成しえたことはないのだ。*パラケルススは長寿についての著作で、病気の人間はただ他者の健康を想像するだけでそれを誘引することができ、そのようにして老人は若さを吸収できると述べているがこれは経験よりむしろ想像力に導かれて述べたことといえよう。たしかにサイレスと呼ばれた人々については、その両の眼によって家畜や子供を魔法にかけるということがいわれている。*ウェルギリウスも「妖術カケル眼モツ者ガ我ヲ苦シメル」と記しているが、そうしたことは接触なしにも行われる。ところが老人を回春させる樹木の果実はというと、これは甘く赤く充分に熟したものであって、それはより良き血液へと変わり、消化もしやすく、もっとも良質の栄養素を提供するものである。残留物も不要物も体内に残留させることはない。そして白髪しろく浮かぬ顔色で無感覚に沈む老人すらもその気質から血色、髪色までも変え、若く活力満ちた紅い外姿を与える。
 それゆえ、哲学者らの言わんとするところは、その石がまずしろい老人であるということ、これに次いであかい若者であるということである。さらに老人は樹木とおなじ場所に置かれねばならないが、これは外気に触れず屋内でなければならない。またそこは乾いていてはならず露滴によって湿っているべきである。密閉された場所で樹木を生い茂らせるというのは、奇妙に思えることかもしれないが、湿気さえ与えられていればそれが存続しうることは確かである。湿気と、かろやかで肥沃な《地》は樹木を滋養し、それは幹や大枝へと昇ってゆき、葉を繁らせ花を咲かせ果実を稔らせる。ここには、すべての元素が協同した自然の営為がある。
 《火》は最初の動因として効力を発揮する。《風》は希薄さと浸透性をもたらし《水》は潤滑さを、《地》は凝固をもたらす。それらがもし余剰となったとき《風》は《水》となり《水》は《地》へと変わる。《火》については、私はこれを生得の熱と解釈しているが、それが種子を萌芽させるのである。これが星辰の力をかりて、種子が芽を出したその一点から果実にいたるものを造出するさまは、さながら鍛冶師がものにかたちを与えるごときものである。とはいえ一方で、露滴の蒸気もまた便宜的なものではない。これは樹木を湿らせることで果実をつけさせるのに一役買っているのだ。これには老人もまたおなじであり、そのようにして彼は果実を口にするよりも容易に最春する。露滴の蒸気は温暖な熱と湿気によって、和らげ、満たし、乾いて皺になった皮膚を恢復する。かくして衰退による萎縮すなわち老年の消耗に効果する《暖かい浴槽》について処方した哲学者らは、非常に合理的であったといえよう。
 けれども、ことをより熟考するならば、ダフネが植物に変身したことにみるように、樹木とは老人の娘でもあることが判る。老人はそこから不当に若さを得ようと期待しているわけでなく、彼みずからがその存在の根拠なのである。

 
 
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