象徴一一 ラトナの肌をば白くせよ、汝の書物は引き裂くがよい。



ラトナの双児を知らぬ者なし

伝承にいはく 其等はユピテルの嫡出なり 但し

陽光と 貌に黒きしみもつ月ともどもの結合こそ

此の双子なり さやふに語る者もあり

かるがゆゑ汝そなへよ ラトナを白化せむがため

刻移さずして 汝を損なふ曖昧なる書を引き裂くがよし


 秘術に関する著述の表現には、それぞれにひどく異なったところがある。これは、真理を追い求めたものの決して斯術の究極には至ることができずに、これを断念した者たちがその書き手だからであって、その寓意的な教説が意図するものは、著述者たちの内に秘められており、ひどく理解し難いものであるがゆえ、これが数多の誤謬の原因となっている。とりわけ同じ言辞ですら異なる事象にあてはめられ、ちがう言葉ですらおなじ事柄に適応されることもある。かような難局より放免さるべき者には、暗黒を通り抜けて真理を知覚しうる天賦の才が例外なく必要である。そしてまた他方では、無尽蔵の富と忍耐力をもって、真実なると虚偽なるを、実験を通じて明かにせねばならない。
 けれども一方は他方ぬきでは為されない、というのも哲学者らの主張である。いかに天賦の才ありといえども、骨の折れる労働ぬきにこれが功を奏することもなく、逆もまた然りである。幾百幾千の誤解、難解、多義性、二重性などに陥らぬよう充分に注意することなくして真理に到達しうる者などは居らず、自然のただしき道を究めることはかなわない。それゆえ哲学者らは「あやまちを犯したことのないような者には、いまだ何事も始まってはおらず、あやまちは我々になすべきこと、なさざるべきことを教えてくれる」と言う。だが、ひとが千年も生きるのであれば、ただ経験によって真理に到るも可能であろうが、さもなくばその人生は、すべて蒸留に次ぐ蒸留に費やされることになろう、という注意もこれに加わる。*『愚者の矯正』には「著述を読み解く修学がなければなんら発展的なことは期待できない」という示唆もある。修学によって無知は除かれ、ひとは万物についての真の知識へと至ることが可能になる、ということである。だからこそこの作業には、真実の知識を内に秘める自然哲学によって、才覚を刺激することが不可欠なのだ。ゆえに実践者は、修学をば、あだや疎かにするべきではない。理論をいとうて実践へとはやる者はよくよく注意せねばならぬ、その術はたんなる自然の模倣と堕するであろうし、さような術には必ずや再考が必要になってくる。究極的な目的へと至るべき哲学の奥義を造成せんとするならば、自然の模倣のみにては不可能なのである。こうした者が実践へといそしむ姿は、まさに干し草をはむ驢馬のごときものであり、みずからの鼻を突っ込んでいるところが何なのかも知らず、ただ視覚と味覚、すなわち外的な知覚にのみその歩調を導かれて、深きところをも理解することはない。そのように賢き者は評している。
 だからといって、こうした修学にばかりこだわり、あまりに消耗してしまうのも好もしくはない。修学は広大かつ深遠なる海であって、ここでは体力も生命も財産までもが失われかねない。それで哲学者らは「ラトナは白化せねばならず、彼らの書物は破棄されねばならぬ」と、この象徴的言辞を用いたのである。これは、篤学の熱意が挫かれぬようにとの配慮である。じっさい、斯術に関する書物の悉くは、ただ著者自身のみに明瞭たるよう故意に不明瞭に書かれてある。さもなければ、求道者が苦労なしに終局へと達するなどということのないように、また、著者自身が以前に書いた秘密を隠蔽するため、斯道を諦めさせたり歩みを遅らせたり、道士の渇望を煽ろうという著述的意図も存する。
 ともあれ作業の主眼は、いかにしてラトナを白化するかということにある。*『角笛の響き』という書物では、ラトナは《太陽(ソル)》と《月(ルナ)》の混成からなる不完全な身体のものと定義されている。古代の詩人たちや著作者らによれば、ラトナはアポロンとディアナの母である。またそれらの乳母とする者もいるが、彼らは先んじてディアナがまず産まれたことを強調している。これはいわば《月(ルナ)》とその白色がまず現出したことを意味しており、そしてその後ディアナはアポロンの生誕を助けて、いわば助産婦の役目を果たしたのだとされる。けれどもラトナといえば、実はエジプト象形寓意の十二神のひとりなのであって、他の国々にこれらの象形寓意が広められた。しかし、その本当の意儀の示すところは、たとえエジプトの高位神官といえども一部の者にしか知られることのないもので、その他の有象無象が自然哲学とはゆかりのない主題にさまざまな女神格を関係付けてしまった。ラトナという女神はアポロンとディアナの母であるがゆえに黄金で装飾された豪奢な神殿に住まうことウルカヌスのごとくであったためである。
 しかし、このラトナ自身は褐色で黒みがかった女神であり、その顔にはおおくのそばかすがあった。我々が白化すなわち漂白せねばならぬのはまさにこれなのである。この目的のために、水銀を昇華させ、滑石(タルク)を油状にし、鉛白から白化軟膏をつくる者がある。調合物を表面に被せるか覆うかなどして、彼女の肌を白くする心算なのである。しかし外皮で覆うような白化などは、風吹くか液体がかかるかなどで簡単に剥離してしまうであろう。こうした処方は内部まで浸透する白化にはならないからであって、哲学者らにはよしとされない偽りの着色によるみせかけだけの欺きにすぎない。哲学者らは真にラトナの顔を白くする。それは浸透力をもって皮膚そのものを改変する術であり表面的なただの着色ではない。いかにしてそれが可能になるのか、という問いがあろう。その答えは以下のとおりだが、まずもってラトナは、このように探究され知解されなければならない。この女神が粗末なところからもたらされるならば、これにはまず偉大な品位が賦与されるべきである。けれども、もし女神がその尊厳にふさわしいところにみいだされる際にはむしろ粗野なる卑しきところに沈められねばならないのだ。いわば、それは汚物のなかなのである。そこでこそ彼女は本当の白さを増し白鉛となる。こうしたところにそれが得られるのは間違いのないことで、この白鉛は赤鉛を生じるもととなり、これこそがまさに作業のはじめとおわりなのである。

 
 
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