象徴一三 哲学者の真鍮は水膨れ、河にて七度の洗浄を望むこと、

ヨルダンの癩ナアマンのごとし。



賢者の病める金属は 尽く水腫に冒されり

水に癒さらむことを嘆き願ふ

こはナアマンのごとし 癩の責苦をヨルダンにて濯ぐ

彼者 河水にて再三再四に洗はるるなり

此に倣ひて汝 きよらかなる水にその身躯を投ずるがよい

病にかはりて力と健康の齎されることすみやかなり


 預言者の命によりシリアのナアマンはユダヤへの旅に赴き、ヨルダン河にて七度の水浴をした。この故事は、預言者の言葉への信頼の証として伝えられたものだが、ナアマンが水浴によって癩病から救われたのは、神聖なる全能の神の奇跡ゆえのことである。なんとなれば癩病というものは、血液や人体の基幹をなす部位に入り込むものであって、一般的な癌腫病のように外的な洗浄ではこれを除去して治癒することは不可能であるし、ましてやヨルダン河のような冷たい水流であればこれは悪化するばかりのはずなのである。
《水腫の疾患に苦しむ哲学者の真鍮をば水浴の洗浄にて解放すること》は、すなわち病める人へと健康を取り戻すことである。病を癒すという偉業は、すべからく不完全に完全をもたらすことであり、これは神の奇跡にも継ぐことである。自然界のどこを探しても、かようなことは存在しないことであるし、哲学者の最高絶対の《ティンクトゥラ》もまた、自然の通常の過程がつくりだせるものではない。これには必ずや外的な効果によって物質操作を統治するべき術が必要となる。たとえば脱臼した腕をあるべき状態に戻すには、自然の作用を期待するわけにはいかず、ひとのなす技術によるしかない。だが一方で、新生児の誕生のときに仙骨がみずから開くのは奇跡的なことであって、新生児はあたかも扉を開くように出生してくる。最も偉大で慈悲深き神が、自然を超え、かつ自然の手によってなす奇跡ではあるまいか。
 「石」の完全化もまた、ありうべからざる不思議のことのようにみえて、それはじつに自然のことなのである。『薔薇園』に於ける哲学者らの言説では「知るべし、我らの石は軽やかなる揮発性のもの。その外観は冷たく湿りをるものの、隠されをる真の姿は乾きて暖かきものなり。冷気と湿気は水蒸気として明確に姿あらわし、こはみずからをうちのめす炎によって消えさる。秘められし暖気と乾気は、温度と乾気をそなへし黄金を生ずるが、そはまさに物体への浸透力もつ最純度の油なり。錬金術的なる暖気と乾気は、もっぱら色素を与える力をもつがゆえ、これ自身は揮発することあらず。それゆえ汝は留意すべし、冷気と湿気がその眼に明らかなるとき、そは秘されをる熱気と乾気にも等しきものなり。そ等は合致し互ひて結び付きては、浸透し、着色し、固着する物体へとたちまちに変ずる」
 ここに言及された*《冷》《湿》性の流体は、加減もゆるやかに物質へとなじませ、穏やかな消化をもたらす火によって、除去されねばならないようである。これらが真実であると認めるとして、この象徴言辞、エピグラムに掲げられた作業をいかにして《水》によって成し遂げるのかが疑問に思われることであろう。しかしこれには、熱気や乾気の性質を秘めた《水》が存在することが答えとなろう。多くは風呂の例に示されるように、そのなかでは哲学的な洗浄がはたらく。これが《火にて洗い水にて燃やせ》と哲学者らの謂うところでもある。洗う火と燃やす水、これらふたつの違いとはただ表現上の相違だけであり、ここに成すべき作業とその効果の帰結に相違はない。ゆえにこの《水》すなはちこの《火》でもって、哲学者の金属――真鍮――はその余分な液体を洗浄せねばならない。それは、乾かさねばならぬということである。
 六ヶ月もの間、あらゆる水分摂取を停止して水腫を癒した人々の試みはよく知られている。熱した砂や牛糞などに身を埋めたり、熱い炉に密閉することで発汗させたり、*カールスバッドやヴィースバーデンにみられる脱水風呂によるなど、必ずや治癒を可能とする方法はいくらもある。これは水によっても炉の熱気によっても、牛糞やら砂やら、水分摂取を節制することもまた有効ではあるが、複数を交互に援用するのが最も効果的である。いずれにしてもここで能動的要素となるのは熱気であって、外部から与えられた熱が内部の熱気、すなわち中枢の霊気を鼓舞し、それが湿気を放出するために、無駄な排泄物と同じように、余分で有害な水分や湿気が肉体の排出器官か毛穴から引き出されてゆくのである。自然熱に敵する有害な湿気が、これを抑えていたわけである。
 だがこうした治療の際には、ある臓器を治療すれば別の臓器が損なわれるという恐れもあるために、充分な注意と警戒が必要である。プラトン主義者たちがその治癒能力を駆使したという「四日熱」に我々は、粗悪でどろどろになった樹脂状の体液があらゆる血管、また大量の血液から集められるということを診た。この疾患は、大静脈などの太い血管を通って背面のかなり深部にまで至っており、そこでは静脈の濾過が妨げられて、血液と血管に漿液をもたらす原因となっていたのである。こうして患者は水腫を発生させ、まだ冒されていなかった内臓までもが影響を受けてしまうこととなった。こうなると治療を施しうる余地は僅かであり、さらに深刻な事態が体内に残留していると予測されるので、とにかく他の臓器が冒されぬよう新たな水腫を防ぐのに一刻の猶予もならない。ここに利尿剤を用いる効果は僅かであるか全くの無益であって、厳密な過程の中から抽出圧縮されたものでなければ下剤もまた効き目がない。発汗薬は完全に有害で、厚い部位を残して薄い部位を排出してしまうので連投されれば肉体を消耗させかねない。自然の摂理としてはただ膀胱が圧迫されたときにだけ、毛穴から漿液性物質を排出するようになっているのである。これは危険な岩床の間へと船で入り込むような状況であって、すこしでも賢明な判断力のある者であれば避けるべきところである。
 このように肝臓や脾臓の衰弱がもととなっている水腫は、最も治療の困難なものであるが、《哲学者の真鍮》の治療は不可能事ではなく、水腫などは偶発的な現象でもあるかのように容易である。とはいえ四日熱の患者に於けるごとくに、それは非常に注意深く扱われるべきものである。あまりの乾燥から痩せ衰えさせることも、湿気による水腫に陥ることもないようにせねばならぬ。

 
 
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