象徴一五 陶工の技は乾燥と湿気のもとに成る。これぞ汝を導くものなり。



見よ 速やかにまはる旋盤のうへ

陶工の如何に 器のかたちを成すか

轆轤を足にて回しては 水を含めて粘土をこねる

かやふに術者が頼るはふたつのもの

液体は其の機敏さで 物質の乾きを癒すなり

賢き者よ 此れに倣ひて行ふがよし

水は地を統べるものにあらねども 地に屈しもせぬものよ


 この地球という天体は《地》《水》の混合からなるひとつのまるいかたまりであるが、陶工のいとなみもまた同様、定まった要素から成り立っている。それはいわば乾燥と湿気であり、これらは互いを強化しあうものである。大地に水がなければ、大洋も海も湖も河川も源泉すらもあり得ず、地はただ自身のみそこにあって何も産み出すことはなく、永遠に不毛なままである。さらに水が大地の深奥へと浸透することなく淀み溜まってしまうのなら、地表は簡単に水に覆われてしまい、地上は住居に適さぬ状態にとどまることであろう。しかし水が地の乾燥を潤し、地はその潤いを悦ばしく受け容れるならば、合意のもとに一方は他方へと浸透することとなり、両の混成は実を結んで、ふたつの元素の美点がとくと現れることになる。
 轆轤の上で形を成してゆく量塊を扱いよくするため、粘土をこねるに陶工は水を加えるが、暖かな空気にさらしてはこの乾燥がゆるやかになるようにもしている。熱烈な炎を加えれば器は「石」へと凝結硬化し耐久性を得て《火》にも《水》にも耐えられるものになる。哲学者たちは範としての陶工を提示しつつ、我々がこの自然の営為に倣うべきであることを示しているのである。陶工の巧みが扱う乾燥と湿気はそれぞれ《地》と《水》へと明白に呼応しており、それは比類のない縁を示す。だが同じように疑う余地もなく明白なのは、諸元素の調合と構成だけでなく内容と形式についてそれぞれには多くの相違点があるということである。陶工の器は人工的に形式が与えられたものであるが、哲学者のティンクトゥラはずっと高貴であり、まったくの自然な形式が賦与されるのである。さらにこれを構成するのも、陶工のそれよりも遥かに卓越した物質内容である。いずれも《地》の産みだす作品であることには違いないのだが、天界へと昇達する《風》の要素が欠けているのが哲学者のものであり、重たいままに不純な《地》を優勢にしているのが陶工の器である。どちらの目指すところも「石」ではあるが、陶工の仕事は卑俗の石を、哲学者の作業は哲学の石を、それぞれ究極としている。
 このような類似点から錯誤に陥って堕落する者らも居る。人造の石だのタイルだの煉瓦だのをごっそりと箱に詰め込んでは、これに火打石などの白いものを加えて、そこに悪魔的な呪文などを作用させることで金や銀に変えるという処方をとるに至る。哲学者の石をこんなものに思いなし、かような準備に財産を注ぎ込んでしまった場合には、期待していたように金や銀は現れずどの石にも望んだような転換は起きていないとなると、これは折良くも迎える死に恥と愚行の終止符を打たれるのである。もともと、金や銀は自然がその種子を植付けていない事物には求め得るものではないし、悪魔的な魔術などは斯術に参与するにはあまりに程遠いものであって、こういう処方の著者などは献身の信仰者からかけ離れていること、地獄と天国のごとしである。
 ひとの身が哲学者の石を見い出すことは可能であるゆえ、術が不可能ごとを成就するという言辞に欺かれてはいけない。イサク・ホランドゥスは「なんぴとたりとも不可能ごとを為すよう強いられてはならぬ、国の法によっても、自然の法によっても」と注意を呼びかけている。たとえば宝石を変容させたり硝子を飴のようにしたければ、自然との調和のなかで、なにが可能でなにが不可能なのかをまずよく調査すべきである。*ゲーベルは、哲学者というものが諸々を象徴寓意に語るものだと主張している。重要なこととなるとゲーベル自身も明確な言葉ではなにも語らないのだが、モミガラのなかの小麦のように、比喩象徴のなかに真理を忍ばせていることを言明している。
 まず種子があり発生がそこからおこるのは植物でも動物でもおなじことであって、たとえ蒔かれたものから異なる種族が生まれるようなことがあろうとも、植物や動物は種子によって繁殖するという事実には変わりがない。こういうことが金属種にもあてはまるかどうかという命題には検討する価値がおおいにある。まず、金属種の構成要素は均質であって、それはいわば硫黄と水銀であるのだが、植物種と動物種では組織的な異成分からなっている。つぎに、金属種には種子が受養されるべきその発生場所としての子宮は無く、養育ということも考慮の必要が無いが、一方で植物や動物にはそれが必要である。そして、金属種には栄養摂取であるとか多方面への伝播だとか増加などということは見出せないが、植物動物はそれらすべてをかなり高度に兼ね備えている。最後に、金属種はただ混合した諸元素の重量なのであるが、反対に植物動物はそれ以上に成長力と知覚する魂をもっている。こうした相違にもかかわらず、疑いなき真実として金属種についていえるのは、大地の深奥になにものかがあって、自然の力によって未だ黄金ならざるものを千年かけて黄金となす、ということである。これをしも寓意的に《黄金の種子》と呼ぶを拒む者があろうか、黄金も《黄金をなす自然力》も唯一の起源といえよう。後者はより高貴なものとして存在している。黄金の種子というものはこのように理解されるが、これはすでに確立された事実であって、「乾と湿すなわち硫黄と水銀を混合せよ。これらは最高純度のふたつの山から抽出される」という哲学者たちの言説に現れている(象徴三八参照)。

 
 
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