象徴一七 四つの球体が火の作業を統治する。



汝 自然の営為を模す者よ 四つの火球を探すべし

内には けざやかなる火が点りをる

根方の炎は ウルカヌスに照応さるを求むべきなり

第二には水星を比し 第三はルナへの橋渡し

第四は汝にとりてアポロンなり そは自然の火とこそ呼ばるもの

この連鎖をば汝の作業の導きとなせ


 我々の自然の術にとって不可欠の《四種の火》について、哲学者たちはじつに多くの箇所で言及している。ライムンドゥス・ルルスや『哲学者の階梯』の著者、あるいはジョージ・リプレイなどである。『哲学者の階梯』では、このような火についてルルスの見解を引いている。曰く「相反する作業があるということに注目せねばならない。《反自然の火》には固体の霊気を水蒸気へと溶解したり揮発性物質の霊気を固い《地》の性質へと凝縮する性質がある。しかし反対に《自然の火》には溶解した固体の霊気を凝結し、それに球形の《地》のすがたをあたえる。そして《反自然の火》に固定された物体や揮発性の霊気を溶解する。それは水蒸気にではなく《哲学者の水》へと変わるのである」。これらの火についてリプレイは、第三の門・一五節にてより明白に語っている。


汝、火に四種のあることをば解すべし、
《自然の火》《不自然の火》《反自然の火》《元素の火》。
これら四種の火を措いて、われら何らの他を利用せず。
《元素の火》とは、木片を燃すがごとき卑俗の炎。
《反自然の火》は肉体(物質)を苦しめるもの、
われの汝に示したごとく、そはいはば龍であり、
その燃焼の凄まじきこと、あたかも地獄の炎と見紛ふばかり。
《自然の火》といへば三番目の溶媒、
生来に、万物の深奥に存在せしものなり。
さる状況のもと生ずる火をわれらは《不自然の火》と呼ぶが、
そは風呂湯、あるいは腐敗に用いる灰の温かさなり。
汝これら四種の火を燃やさねば、
なにものをも溶解しえず、汝の原料物質が分離しあらたな組成を得るための、
「腐敗の過程」を達成することかなわぬなり。
それゆへ硝子の容器中にて火を惹こすべし、
そは《元素の火》より能く物質を燃やしをり、
さすれば汝、その望みにわれらの秘密を沿はせ得て、
汝の種子は根をはり葉を広げ
燃えさかる火は、それらが分離を幇助すべし。

 まさに燃えさかる資質を秘めたるが故に、それらは《火》と呼ばれる。《自然の火》は凝固する力を有しており《不自然の火》にはものを溶解する力がある。《反自然の火》には破壊の、そして《元素の火》は最初の動因と暖気を司る力を有す。さらにこれら四種の火には、鎖のごとき列順配列のつながりが認められ、第二は第一に、第三は第二に、第四は第三と第一の作用に焚きつけられていることが判るのだが、それはそれぞれを異なった観点からみれば能動因でも受動因でもあるからなのである。互いに接触しつつ磁力によって結ばれる鉄の輪にみられることが、これらの《火》どうしにもおなじように見受けられるであろう。《元素の火》は磁力のようにその作用を第二第三さらに第四へと及ぼしており、ひとつひとつを相互のはたらきによって繋いでおり、潜在能力を覚醒させて最高位のものへと至るまで、それらを互いにつらぬいて密着させている。名実ともに第一のものは《元素の火》なのであって、第二は気体あるいは揮発性、第三は水の様相をもつルナの性質のそれであり、第四は《地》の属性である。最初のものについては、誰の眼にもみえて感じられるものとして存するからもはや語る必要はあるまい。他の三つは《龍》《月経の糧》《水》《硫黄》あるいは《水銀》とも呼ばれる。《龍》というのは、それが毒性を帯びて自身の種族である蛇を飲み込むからで、如何なる物質もそれと混合すれば改変し、いわば分解と凝固をなすと言える。また《月経の糧》(溶媒)とも呼ばれ、哲学者の幼子はそのなかに胚胎され誕生の時まで育まれる。ライムンドゥス・ルルスもまた『クインタ・エッセンティア』の書の三節で、植物と鉱物の二重の《月経の糧》について言及しているし、ジョージ・リプレイはその『門』の序文で、互いに呼応して単一体となる三つの溶媒を挙げてもいる。これらの全てによって幼児の胎生はなされ、誕生に先立つ白い水は幼児の構成要素ではないものの豪奢過多な供給物であり、だからこそ抽出されるべきものであるのだ。
 さらに《水》であるというのは、《火》のなかにあってそれらは水の性質をもあらわすからで、それらは流れもするし液体でもある水の資質なのである。《水》の資質が多種多様かつ摩訶不思議なものであるのは確かなことで、例えば、石化、硬直させる作用はこの場合、建築資材のための石にすらも使用できるのである。これらは哲学者の鉱物水と似て、硬化の度合いを強めては不動の耐久性をもたらす。
 さらに《硫黄》とも呼ばれるが、これは自身のなかに硫黄の作用をもっているためである。硫黄の性質は他の硫黄と混合してひとつの硫黄になることで、ふたつの硫黄はひとつによって溶解し、ひとつはふたつによって分離し、硫黄は硫黄に含まれる。これは『賢者の一群』でのイジミドゥルスの言説である。しかし硫黄そのものについてダルダリスは同書にて以下のように述べている。「硫黄とは四元素のなかに秘められた魂であり、それは術によって抽出されれば互いを抑止し統合する。硫黄の胎内に秘められたものを水によって統治しよく浄化するならば、秘められし者は自身の資質と向き合い、悦んでこれを受け入れる。水に注がれた水のようなものである。」モシウスもまた言う「我そなたにそのなんたるやを教へむ。ひとつはじつに激しき活ける水銀、第二はそのなかに混ざり合ふ物体、第三に硫黄の水。それによつてひとつは最初に洗浄され、作業のすべてが完了するまで腐蝕され統治されつづける」と。硫黄について記されたことは、そのまま《水銀》の理解ともなるべきものである。モシウスが言うには「《活ける水銀》やカンバーは《マグネシア》であるが《活ける水銀》あるいは雄黄染料、硫黄、それは調合された合成物から立ちのぼる。」しかしこれ以上の例証を挙げることは枚挙に暇がないので控えることとしよう。これら四つの《火》は宝珠あるいは球体のなかに封じられている。それはいわば、そのどれもが固有の中心をもって、そこから、あるいはそこにむけて、作用を及ぼす。それらがたがいに結ばれているのは、ある部分は術によって、ある部分は自然の力による。だから一方は他方なくば、いかなる能力を発揮し難いのである。一方の能動因は他方の受動因であって、逆もまたそうであるからである。

 
 
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