象徴一八 火は燃やすを好むもの、されど黄金の黄金を産むを好むことなし。




世に能動の原理あるかぎり

そは遍く世界にちからを広げ 倍増させむと欲すもの

触れるすべてを燃え立たす 火もこれにおなじもの

やむごとなき造作 成されむには かならずや原因こそ存すべけれ

黄金そのものは燃え立たすことなし 火もまた金となるものでなし

おのれに秘めらる種子のなんたるかをば

どちも能くぞ識りぬるものよ


 森羅万象、あらゆる個物へと働きかける自然の営為は、ただひとつの動作の補完をめざす、ただひとつの過程を踏襲する。人体の解剖にも見受けられることであるが、あるひとつの筋肉は牽引、伸張などのただひとつの動きのためだけに存在しており、手足を曲げるなどの動作の際には、これら単純な筋肉の運動が複合的に循環してめぐる。火の作業もまたこれに同様であって単にただひとつのものである。熱し、燃え立たせ、そこへ投じられるあらゆる可燃物を燃やしつけ、火そのものへと変えてしまう。

 *アヴィケンナが『石への凝固の書』のなかで述べるには「塩坑に嵌り込んだものは塩となり、火に包まれたものは火と成り変わる。しかしここには、変質の速やかなものと、その緩やかなものの違いがある。それは、ものに秘められた《能動の力》や《受動の耐性》に因った違いである。あらゆる物質が内奥に秘める色彩をひきだし、物質を色付ける場所がアラビアに存する」。各個それぞれの自然物には、自然によって吹込まれた特性があり、混合されたり加えられたりするものとの同化、改変の融合過程のなかで自身の性質や形状を伝えてゆく。これは植物種と動物種でいうならば種子の伝播による世代生成であるが、物質混合の過程に於いては、極めて単純明解なるかたちでの類型性質の賦与である。

 天よりふりそそぐ太陽の光は燦々とその光線を大地へと投げかけている。これを凹レンズへと集光させれば、その有様は可視のものとなり、太陽の似姿のようなものを形づくる。太陽光線はまさに火炎に他ならず、このようなものが広漠たる範囲に拡散分散していることは明白である。そうしたものが一旦にも凹み、透明で、かつ円形で反射する器具、たとえば凹レンズ、鋼の鏡によって一点集中され凝縮されれば、その集中点の照らすいかなるものをも燃焼させる。
 これと同じように、諸元素より成る物質には、蒸気のように拡散する力が存するが、これが結束されればまず液状《水》になり、さらに凝縮されれば泥土状《地》になる。先に引いた書のなかでアヴィケンナは「《地》の力が《水》を圧倒すれば、《水》からは《地》が生ずる、逆もまた然り。創意の巧妙なる者らは、事物を乾態へと凝固させるとき、さる特定の物質を利用する。この物質は二種の水より合成されたもので《乙女の乳》と呼ばれる」と記している。あるいは、磁石の力を倍加増大させられると考える者もいるが、私自身の実験によれば、銀に据えられた一ポンドの磁石は二八ポンドの鉄の錘を持ち上げるが、磁石の力が強化されなければこうしたことは不可能であるはずだ。これは疑いなくも、拡散された力の一点への凝集、あるいは、より大きな物体からの小さなものへの凝縮によってなされたものに違いないと考えられる。
 また、ある者が主張するには、鉛となるべき石は土星からの硫黄の息吹によってつくられ、それは卑俗の水銀に含まれて保持されており、凝固されねばならない。それは即座に卑俗の水銀を鉛へと変成する。ある者は、アンチモンあるいはその《星形のレグルス》によって銅の蒸気から銅をつくることができると誇っており、それは卵を食べるほどの一瞬の時間もかからないという。さらには、彼らはそういうやり方であらゆる金属を生成し得たという。彼らの名誉を損なうつもりはないが、けれども私には、そういうことは可能なことではないように思える。詩人の言葉に「麦を育てる者ならば麦を蒔くべし、黄金の中には黄金の種が眠っている」とあるが、黄金から黄金をひきだそうと努める者のほうが、これよりも幸先よいものかどうか、私には判じかねる。
 たしかに、あらゆる自然物質はそれ自身を繁殖させる作用をもっているが、これはただ植物と動物にあたえられた力であるはずなのであって、金属や鉱物、大地に結ぶ化石物、あるいは隕石にはないものである。小さな穀の種子から生えのびる植物は、幾千もの種子を産し、繁殖して広がり、動物も年々に各々の習性にしたがって大なり小なりに数を増やす。しかしながら、ひとつの金属がさらに精製純化したものへと変成するということがあるとしても、動物種のような仕儀でもって金や銀、鉛、錫、鉄、銅が繁殖を成就できるはずはなかろう。それでもやはり哲学者らは、火の中には火を起こす始動点を見い出し、そのようにして黄金変成の始動点が黄金の中にこそ捜されると主張する。だがこの《ティンクトゥラ》というものは、黄金を製造する媒介とこそみなすべきである。其方はこれを、異なった性質をもつ自然物にではなく、自身本来の原理と生成のなかに求めねばならない。火が火を産み出し、梨が梨を、馬が馬を、だから鉛は銀でなく、鉛を生成するのだ。金は《ティンクトゥラ》でなく金を造成する。しかしこれらすべてを超えて哲学者らは、独特の《金》の存在を示唆し、術の究極点に於いてこれを《酵母》として含金の石へと加えねばならぬことに異を唱える者はない。それは事物それ自体にひそむ性質をかきたて、発酵させるものであり、これなしに混合体のぜんたいを完全状態へと回帰させることは不可能なのである。

 
 
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