象徴二三 パラスが生まれ、ソルがウェヌスと結合すれば、ロドスに黄金の雨は降る。



そはギリシアより伝わりし いとも驚くべき物語

ロドスの民に祝われしこと

雲間より黄金の雨露の降り注ぐは 愛のもとに

ソルの キプロスの女神と契るときと民の伝ふ

刻おなじくして パラスはユピテルのかふべより生じ

その間にも 設へられたる器のなかへと

黄金の溜まりゆくは 吹き降る雨のごとし


 寓意的の解釈を施されるべきものでなければ《大地に黄金がふりそそぐ》などということはじつに愚かしい主張となることであろう。雲のなかには黄金をうみだしうる河も鉱脈もないし、黄金の重量は、蒸気によって雲まで上昇するほど軽いものではないのであるが、しかし比喩的ないろどりのなかでは、こうしたことのすべてが許容されてしまう。じっさい《パラスがユピテルの頭部から生まれた》ことも《ソルがウェヌスと契る》ことも真実ならば、まさに《黄金の雨が降る》のもまことのことではあるが、それはこれらのことどもが実際に起こりうるかを疑えるような類ではないので、我々は寓意的に語られた事象を文字どおり解釈してしまう俗悪な思慮をこそ取り払わねばならない。この象徴をなす平明な言葉にそのまましたがうならば、ここには不条理な滑稽いじょうのなにものも見出せないが、我々が真理に到達せんとこれに留意するとき、ここには真実いがいのなにものも存在しないのである。ロードス島はたくさんの蛇を産したことからまずオフィウサと呼ばれたが、その庭園には薔薇が咲き乱れたことからロードスと呼ばれるようになり、世の七不思議のひとつとして尊ばれた太陽の巨像に由来して最後にはコロッシコラと呼ばれるようになった。いにしえの賢者らはこの島の名の変遷に水銀との類似をみているが、水銀は未加工の状態では蛇に似ており、調整され煎じられれば薔薇の深紅色を呈するからである。このように賢者らはロードス島にみずからの作業との類似を見い出し、そのような理由から《アポロのウェヌスとの結合に降りそそぐ黄金の雨》という詩句をなしたのである。
 はじめ象徴的に語られたこうした詩句はやがて、偉大なる神格の者たちが自分たちの島で子孫を残そうとしたという奔放な想像を託つけるきっかけをロードスの民に与えるものとなり、かくしてロードスの民は、まったく途方もない価値と巨大さの偶像を太陽へむけて建立することになったのである。記録によればその巨像(コロッサス)は高さ七〇キュビト、帆をいっぱいに広げた船が足の間を通過できるほどのものであった。その指は一般的な彫像ひとつとおなじ大きさであり、なかでも親指となると、これを抱きかかえられるような者はほとんどいなかった。考案者はリュシッポスの門弟リンドス人カレスであり、完成までに一二年の歳月を要した。五六年ほど屹立しつづけた後に地震の一撃にて倒壊したが、その横臥のありさまですら驚異的なものであったという。エジプトの君主(スルタン)はロードス征服にあたってこの巨像をなす真鍮を運び出すに九〇〇頭の駱駝を必要としたと記されている。
 諸惑星のなかにあって《ソル》とは如何なるものであろうか。哲学者らの語るところでは、それは金属の種における黄金であるが、これは主にその熱気、色彩、廉潔、精髄を考慮されて太陽に充当されているのである。それゆえ《黄金の雨》はこの太陽の生成、あるいは生殖に帰されており、小さき太陽が《ウェヌス》に懐妊されるということである。《ウェヌス》は薔薇色の面貌をもち、これが《ソル》の種子へ注入されれば、ここから生まれる子孫がまさにロードスに生誕するというわけである。この《哲学者の息子》は美しき薔薇のようであって眼を魅かれぬ者はないほどで、愛情を一身に受けるだけの価値があり、後にあらゆる奇跡的なことを成し遂げ、黄金の雨滴を降らせもするので、これの生誕に際して奇跡が起こることはまったく奇妙なことではないのである。この《哲学者の息子》は太陽の息子オルギアスの兄弟であり世襲の財産として雄牛を持つ。その糞は一日に一度ヘラクレスによって清められる。さらにはアエテスの兄弟にもひとしく、イアソンの後に金羊毛皮を継ぐ者である。
 《パラス》について伝わっているのは、それが母なしでユピテルの頭部から生まれ、トリトン河の近くで生まれたことからトリトニアとも呼ばれているということである。叡智の女神ともされるが、これが生まれ出た頭部はまさに叡智の座であるから、さように尊ばれることは決して不当ではない。《黄金の雨滴》はまたロードスにおける女神生誕という重大なきざしであり、この光のなかへの女神の降臨の刻は人類の記憶にきざまれるものである。王の戴冠や皇太子の生誕など、民衆の祭事にはひとびとのなかに金貨が舞い、こうしたことが《パラス》の生誕でも行われたのである。《パラス》は智慧、あるいは叡智であるから、女神は右手に健康を、左手に富をもち、人々の安楽と豊かさのために、このどちらをも同時に差し出す。ペルセウスは《パラス》に、あらゆるものを石に変え、毛髪の代わりに毒蛇をはやした外貌で恐れられたメデューサの首を捧げ、女神はこれを楯にしこみ、敵対するものにこれをさし向けた。敵とは、無知蒙昧のやからであり、かような者たちは石へと変えられてしまうのである。同様にまことの叡智、あるいは自然探求の哲学は、信心なく嫉妬ふかき批難者どもを、まったくの愚かもの、つまり思慮と理解の空白へと変容させてしまうのもなのである。それは、三つの身体を持つゲリュオンの父クリューサーオールの生誕地である物質、すなわちゴルゴンの血が、そうさせるのである。これこそがまさに、哲学の石の染色素(ティンクトゥラ)にほかならない。

 
 
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