象徴二四 王を喰らひし狼は、焼き尽くされて王へと再び生命を回復さす。



そなた しかと貪欲なる狼をとらへよ

其奴の眼前に王の肉体を放ち遣れ

さすれば飢狼は満たされて

此をウルカヌスの燃やす薪束の焔へと投げ込めば

かくして怪物は灰燼に帰す

再三再四に繰り返せば 灰中より死にし王はよみがへり

王は獅子の情熱をも誇るものとならふ


 飢えたる狼がいかに貪欲なるものかは、誰しもによく知られたことである。獲物にこと欠けば土をすらもむさぼり喰らうほどであり、またそうすることで腹を満たした餓狼は体重を増し、大きな牛の群に飛びかかろうとも容易には獲物に振り払われぬ抵抗をつけている。羊舎に侵入するときも、餓えを満たすに足る殺生にとどまらず、貪欲さに身を任せて羊群のすべてを殺戮してしまう。このような《狼》というものがアポロン、それからラトナへと捧げられているのは、産苦に臨むラトナを見守ったのが《狼》であるからで、さもなくばラトナは子を産むことができなかったのである。かくして《狼》は闇夜にもするどい眼光を放って誕生を祝福したがゆえ、アポロンに奉じられたものともされた。もはや息せぬ《王》の躯を、餓えたる《狼》へと投じるのも、この餓狼に王をすっかり消化させ根絶やしにしようというわけではなく、むしろ命絶えた王へと狼の精力を取り戻さんがためなのである。狼の尻尾には肉欲を催す効能が存するとされ、こうしたものが仮死状態の《王》へと吹き込まれる。これは、万人が在りし刻の健康や美貌を回復さすにも、他に比類なく好ましいものでもある。
 *キケロの語るところによれば、ヒュルカニアの民は死んだ者を葬るために、死肉を喰う特別な犬を育てたというし、またマッサガテ人は病気で死んだ者を犬の餌食にしたという。けれども哲学者らが《王を狼に与える》のは、人々の骸を堆肥のように扱って、たとえそれが王であっても、これをはきだめに棄てるシバ人のごとき振舞を好んでいるわけではない。ましてや、死体の首と足をしばりつけ、これを騒々しく嘲りながら放り出し、敬意ある埋葬など一切しない紅海の穴居人がもつ習慣のようなものでもない。むしろ哲学者らは、荒野の獣たちによって分解されるまで、死人を決して埋葬しなかった司祭(マギ)たちの風習に従うことを選んだまでであって、戴冠して神への讃歌のなか、生きたまま焼かれることで老いを避けようとするインドの民の呪術に近いのである。しかしながら、これらの民族的風習はすべて、いかなる生命の復活も再生への望みもなしに課されているものにすぎない。しかし、ことは賢者らの場合には全く異なる結果を齎す。賢者たちは《狼》に貪り喰らわれた哲学の《王》から、つよく若い生命にあふれた或るものが出現すること、かわりに《狼》が焼き尽されるべきものであることを熟知している。存分に餓えを満たした《狼》は打ち倒すことも容易であり、その一方、死したる《王》は、傷つくことも疲弊することも全くない、勇ましくも白鳥のごとき徳目をもつに至る。
 さて一体どのような場所でこの《狼》を捕らえることができるのであろうか、そして《王》の由り来たるところは何処か。賢者らの答えでは、《狼》は獲物を求めて山を昇り谷を下りして彷徨っているとか、あるいは、巣穴からひきだされて後々の使用に控えられるものである、などと云われている。また《王》はといえば、東方から昼夜を問わない長旅をして疲労困憊の体で倒れこんでいるうえに、さらに異国の地にあってはその威信もとどかず、その苦しみが死にいたる窮状を加速させている。もはやこのままでは一切の名利を失ったまま、あまりにも僅かな安値の見返りのもとで奴隷にでも売買されかねない。そこへきて《狼》はリビアやエジプトなどの寒冷きわまる地域にて捕らえられるべきものであり、そういう寒冷の国々の外的な冷気が影響しているので獰猛な飢えをかかえている。《王》はこのような《狼》によって貪り喰われることで獅子の情熱を賦与されて復活し、これが後にあらゆる獣をも征服する力となる。この《王》は六兄弟のなかでは、もっとも劣る外観をしており、いちばん若いのであるが、多くの困窮と艱難辛苦を経てついには最も力強い王国を再建する。以上のことについて『薔薇園』のグラティアヌスは「錬金術には達人から達人へと相伝される或種の、酸いも甘いも噛み分けた高貴なる物質があり、まずは辛酸なめる悲嘆に暮れるも、終局には歓喜を味わう」という。さらに同書にてアラヌスは「万物より選別されしものあり、そは鉛の難色を示すも内にうつくしき液状金属を秘めたるなり、そは熱く湿りて水のごときなり、可燃にて活発なる油、そは煥発なる染色素(ティンクトゥラ)、鉱石の、驚くべき効験もつ生命の水なり」と述べている。
 自らの王国の領土を離れて旅をするのは、王というものにとって必ずしも安全なものではない。潜行を試みるにしても、うっかり敵の知るところとなれば隠密裡に囚われの身となってしまうし、兵を連れずの周歴も、それと知られた王を同様の危難にさらすことになる。まさにこうしたことがこのインドの王に降り掛かった災難であり、死ぬことによっての妨げを除けば、必ずやこのようなことが王に起こるものである。こうした王の捕囚は、最初の《昇華》、つまり哲学者らの施す浄化液による高貴さの表出であり、これによって後につづく第二第三の《昇華》がいっそう効果的なものとなるが、最初の《昇華》が巧くいかなければ第二第三のそれは無意味なもので、《王》はいつも眠そうな小胆の病弱者になってしまう。《王》にとっては、まず最初に受けるべき献身が重要であり、家来や御調を要するのである。税を賦課することで衣服などの必需品をととのえた《王》は、こうしたことの後に、おのれの命ずるままにすべての家臣を更衣さすに充分な富裕の者となる。まこと、偉大な事象とは概して小さな始まりから生起するものであり、それが後に、小さな事象の数々をも生起させたり、あるいは大きなものを治めたりもする。たとえば、あちこちの街にもみるごとく、はじめ小さな村であったものが力つよき王に統治されてより村びとは民衆となり、ついにはこれが壮大な都市へと発展するということもある。

 
 
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