象徴二六 人間叡智の果実は生命の樹にみのる。



ひとの為しうること 叡智にまさるものはなし

ゆたかにすこやかなる生の来たるところなり

女神の右手には 恙がなき長生のあり

左手は 超えたる富を封ず

女神には 理論と実践もて謁すべし

その価値 生命の樹の果実にもひとしきものとならむ


 人間を他の動物からへだてている根本特性についてトゥッリウス・キケロはいみじくも記した。鳥の飛び、馬の駆けるを本分とするがごとく、ひとは《叡智》をば活かすために生まれてきた。獅子、熊そして虎などは獰猛な所行に及んではこれに悦び、象や牛たちは頑強な体を駆る。鷲や隼、鷹は迅速な翼の飛翔で鳥を補食する。こうした他の動物たちにもひとがまさるところとは、良識にもとづいた洞察の識能であり、もはやこれを前にしては獣たちの獰猛なる肉体の頑強、あるいは素早さといったものですら色褪せよう。ただひとの《叡智》だけが、猛々しき動物たちをも飼い馴らしこれを征服し、うちひしぐことができる。もともと《叡智》というものは、ひとのものでもなければ《地》よりしょうじたものでもなく、詩人のいうようにこれは、天上よりひとへと送られた聖なる息吹の微細なる粒子のようなものであった。これをもちいて経験を加えれば、ここからは思慮分別が芽吹くので、《叡智》はよき記憶あるいは聡明なる美徳をもたらす。まさにこれこそが人間の到達しうる最も高貴なるところであり、これを用いることは父、先人の記憶はその母であるともいえるであろう。それゆえここにつらなる子孫たるや、比類なく高邁なものとなる。ところで、ひとが真実の《叡智》を駆使して殉じるべきもっとも価値たかき探求とはなんであろうか。もとより万人はおのれ自身の創造力へと理智を用いるから、これには尽きせぬ議論が展開されることではあろう。だが《叡智》というものは、詭弁ふるう議論だの、修辞だらけの弁論だの、言葉を弄して綴られたた詩句だの、重箱の隅をつつく文法学者の批判だのといったものに存するものではない。いわんや、ゆがんだ虚偽の計略におぼれては弱者の苦痛をも叫びをも一顧だにせぬ圧制により、おのれの富ばかりを積み上げようとする為政者の奸計などを許すようなものでもない。ここでは、魂を捧げるべき聖務に属することをすべて除くとしてもなお、《叡智》は人間そのものにかかわるものである、ということだけは言えるだろう。《叡智》とは、その可能性を実践する錬金術へのまことの理解をたすけるものにほかならず、かくして人類に莫大な利益を貢献する。これこそが万象に卓越した《叡智》であって、叡智の女神の右手は東の彼方へ、左手は西の果てに、かくして地上のすべてを抱擁している。

 かくのごとき真実の《叡智》について、*ソロモン王はいみじくも『叡智の書』に述べている。「我々に示されているのは、かくと知らされた者たちがどんなに不屈の忍耐を備えていたものであるか、あるいは、叡智に親しむ者たちが、いかに純真なる喜悦に与したか、ということである。叡智に身を捧げて勤勉なる精査をなす者は数多の愉悦を授かり、叡智との対話にいそしむがゆえにもはや退屈ということをしらず、かくしてただ叡智とともにあることの歓喜があるばかりである。葡萄酒も、音楽も、また人に愉しみをあたえるものではあるが、叡智の愉悦のここちよさにまさるものはない。叡智を授かる者は皆これを生命の樹とし、そのように生きるを遵守しつつ幸福を享受している」*ラクタンティウスはまた《叡智》を《魂の滋養》であるとする。《叡智》を尊ぶ者は《叡智》そのものに讃えられ、賢者は栄誉を受け継ぐのである。たとえ俗界の統治者の十人もあろうが、賢者をねぎらうに力強きものは《叡智》の力に勝るものなどはない。かような《世界の叡智》について、*預言者バルクの遺した言葉に「汝しるべし、叡智あるところにこそ義と理のあり、光明のもと安らかなる日々に命ながらへむ処なり。まことの叡智をこそ学ぶべし、そは命数、幸福、喜悦、安寧をもたらさむ」というものがあり、ソロモンもまた『叡智の書』に「叡智の女神の微笑は至上の喜悦。その仕事への参与は無限の富となり、その導きへの実践はふかき思慮を覚ます。女神と語らえばいつも佳きに気付く」と強調している。

 賢者モリエヌスはこれについて「知識はそれを所有する者をこの世の苦難から逃し、来たるべき佳事への予見をもたらす」と記し、さらにそれが神の賜物であることを主張して「これはいとも高き神の賜物にほかならず、従順なるしもべ達にこそ神はこれを委ね明かした。ゆえに全能の神にはいつ如何なるときにも謙虚、従順をしめさねばならぬ」また「汝かくも識るがよかろう、王よ、自然変成の術(マギストリ)はまさに、至上なる偉大な神の秘中の秘たるアルカヌムであり、魂を天界に据えたる預言者にこそ、神はこの神秘を委ねた」と述べている。《生命の樹》とは、たとえそれ自身のなかに、救済された永遠の生命が存するわけではないにせよ、永遠なる生命へのしるべとなるものであり、それが稔らせる健康、幸福、安寧という果実は、ひとの命に欠かせぬものなのである。これなくして人間は生きながらもはや死んでいるにひとしい。ひとは、己をそとからながめることで自身いかにあるべきかをしることはあるが、《生命の樹》なしには、ほとんど卑しき獣の類とかわるところもなかろう。

 
 
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