象徴二七 哲学者の薔薇園に鍵なしに入らむとすは、足なしに歩くことに似たり。



叡智の薔薇園 百花繚乱なれど

門は堅牢に閂されをるが常なり

園へと導く鍵は世にあまねく いとも値うちかろきもの

然れども 鍵なしには汝 脚なきにして歩むがごとし

汝 あへて険しきパルナソスの頂きに挑む者よ

汝 平たき地表にすら立つ力も残せぬといふものを


*エリクトニウスは、ウルカヌスと叡智の女神パラスの格闘のさなかに《地》から生まれ、その姿形は人の備えるべき足をもたぬ蛇のようなものであったと伝わる。つまり、パラスの叡智ぬきに只ウルカヌスによってのみ、ことをなさんとする人々は、足が無かったり畸形的だったりという怪物的な子孫を設けることとなって、こういう者は人にも己にも利することが決して無いというわけである。手と足の四肢すべてを使って歩かねばならぬのも人間にとっての悲惨ではあるが、より無様なのは、無くした足の代わりに手を使うようなありさまであって、これではもはや爬虫類の流儀をまねて芋虫の地位までも退いてしまったかのようである。

 二本の脚足はふたつ揃で働く機能であり、さもなくば本当の意味での「歩行」とは言えまい。両の眼が無ければ「見る」ことも、両の手なしには確実に「掴む」ということもないのである。医学をはじめ、あらゆる技術もこれに同じくニ本の脚足すなわち理論と実戦を互恵的に機能させることが前提となっている。そのどちらかに手落ちがあっても、その技芸は、伝統に培われた規則について不完全にいざり歩くこととなり、目標に到達することは叶わない。化学の術にとっての主なるふたつの脚足とは、ひとつに《鍵》ひとつに《錠》である。このふたつによって《哲学の薔薇の園》は四方八方を施錠されており、門は園に入る権利をもつ者にのみ開かれる。そのどちらか、片方でも手に入れていない者がそこに侵入しようとしても、それは片足で走って野兎を捕まえんとするに同じことであろう。これほどに厳重に封じられた庭園へと《鍵》も携えずに入ろうとする者はそれだけで盗賊のようなものでもあるが、仮に夜の闇に乗じても、庭園の中に生い茂るものなどはなにも識別できぬであろうし、そこで盗みなど働けるものでもない。

 《鍵》はそれ自体なんとも価値なきつまらぬものであるので、それが《石》と呼ばれるのは正しい。しかしこれは《ロドスの根》とも呼ばれ、それなしには一本の枝も生えず芽も膨らまず葉も茂らず、薔薇は咲き乱れることもないのだ。とはいえ、この《鍵》はいったい何処に求められるのであろうか。神託によれば、その探索は《*オレステスの骸骨》の横たわる地に始まる。そこでは《風・殺害者・反射・人間の死》といったことどもが、いちどきに見い出されるところである。*ライカスは、この託宣には鍛冶場が示されていると読み取っており、《風》はその鞴、《殺害者》は槌、《反射》は背面打ちの金床、《人間の死》は錬成される鉄をそれぞれ意味しているという。精確に算定する術を身に付け、徴を見逃さぬ者ならば、北の黄道に《鍵》を、南には《錠》をば、必ずや見い出すであろう。さようなことに熟達していれば、扉を開き中に入ることは容易い。

 門をくぐれば入り口のほどなきに、最愛のアドニスと共なるウェヌスを眼にしようし、女神はその血で白い薔薇を紫に染めている。ここで留意すべきは龍であり、これが薔薇を監視しているのは西方のヘスペリデスと同様である。薔薇の香りをつよくするには、おなじところで大蒜を栽培するのがよいとされているが、これは大蒜の有する卓越した熱が冷害を防ぐからである。瞳に鼻にいとも悦ばしき色彩と芳香を身に付けるために薔薇は、太陽の熱と土壌の暖かさを要する。また、卑属の硫黄の臭気は赤い薔薇を白くし、反対に硫酸と硝酸の霊気は薔薇に活力を与えてまことに深い紅の色を持続させる。卑属の硫黄は哲学者の硫黄の敵でもあるが、破壊の脅威となるほどのものではない。溶解液は友好的であって色彩を維持するのである。

 ウェヌスの美しさに奉じられた薔薇は、他のいかなる花をも凌ぐ。薔薇は処女の徴であり、なんらの報復もなく冒涜に晒されることがないように、自然が武装させている。菫にはこの武装がなく、それを踏む足にも潰されてしまうが、薔薇は刺針のあいだにやすらい、内には黄色の髪を秘め、外には緑の被服をまとっている。刺針に傷つかずにこれを摘み取るには、賢き者であらねばならぬ。愚かな者の指先には刺の傷が避けられず、さらにはハチの巣からもたくさんの針が襲い、蜂蜜のかわりに蜜蜂にさいなまれることになる。あるいは泥棒のように、首尾よく密かに薔薇園に忍び込みえたものの、なにも獲得したものもなく、骨折損のくたびれ儲けを喫した者も多い。薔薇を摘み取るのは、いとも思慮深き哲学者に他ならないのである。これについてバカサーは『賢者の一群』でこういっている。「我らの書物は、ただ一度か二度、あって三度ほどしか読まぬ者にとってはかなり危険なものであるかも知れない。学智すべての理解に於いて失意に陥るからだ。より悪いのは、そうした者どもがこの技芸にすっかりその財産を失い、苦労の刻を浪費することである」さらに「自分を完成者であり世界を手にしたと思うものあれば、その者は自身の手に何も掴んでいないことに気付くのみであろう」と。

 
 
inserted by FC2 system