象徴二九 火に火蜥蜴(サラマンダ)の住むごとく、火の中にこそ石は在り。




あかくたぎる焔のさなか むしろ火蜥蜴(サラマンダ)は息災なり

ウルカヌスたる汝の威迫を歯牙にもかけぬ

石もまた燃え盛る炎の中に出づるもの

容赦なき火焔の手を避けむともせぬ

火蜥蜴(サラマンダ) 内に秘めたる冷気は火をも消しその難を逃る

然れども石は熱し おなじ火によりても遥かに醸成さる


 およそ動物たるものならば、ふたつの元素すなわち《風》《水》のなかに活動する。生命はあとのふたつ《地》《火》の元素中に存続できるものではない。《風》《水》は第一ならびに第二性質として温和さと中間性質をもっているが《地》《火》の重厚さも希薄さも極端である。《地》の厚みはもはや物質を許容せず《火》の希薄さはいくらかを受容するとはいえ物質をつらぬいて焼き尽くしてしまう。たとえば人間が地中の洞穴に生活するのは可能なことではあるが、それは《風》が方々より下降し来たって充満しているので真空状態にならずにすんでいるからである。しかし、ここでは諸元素のそれぞれに話題を限ろう。《水》のなかに活きる魚類はその数、種類に途方もない多産さを示し、あらゆる動物種で最大のものもここに生きる。《風》のなかには人間をはじめ、四足獣、鳥、蠕虫、昆虫も住む。秘められた《地》にさまようのは霊魂であろうが、これについては何をか言わんや、それらはもはや動物ではない。

 《火》のなかに住める生き物などは存在しないというべきであろうが、火蜥蜴(サラマンダ)は別である。それは這い回る蠕虫のようないきものであって蜥蜴に似ていなくもなく、大きな頭と独特の色彩をして緩慢に動き回る。我々がアルプスのスパルガ山麓で観察した記憶によれば、雷雨の後に岩々の間から出てきて行く手に横たわっており、土地の者たちによればそれはエイン・モルクと呼ばれるという。じっとりとした粘気のある液体に包まれており、その液体の効果によって火中を自在に通り抜けているようである。

 哲学者らの示唆する《火蜥蜴(サラマンダ)》もこれによく似てはいるが、しかし実際はおおいに異なり、火のなかにこそ生まれるものなのである。卑俗の火蜥蜴が《熱・乾》気うずまく炎の中に在ってこれを通り抜けられるのは、つよい《冷・湿》気によって燃焼されるのを防いでいるからである。この《冷・湿》の性質は、(どんなものでもそうであるように)それが生まれ来たる母体の性質から受け継いだものであり、生まれた土地の性質との類似によるのである。《火》もまた、それ自身に類似した《熱・乾》のものも他はなにものも産みはしないのであるから、充分な水を秘めた岩間の洞窟の《冷・湿》気がこのちいさないきものを産んだことは、まったくの反対のことである。哲学者の《火蜥蜴(サラマンダ)》は性質の類似によって《火》を享受するものなのであるが、卑俗の火蜥蜴は自身の性質を対立させることで火の性質を打ち消し、あるいは影響力に抵抗している。

 キプロスでは、火中にうまれる*フライ・ピラウステなるものが真鍮の火炉から飛び立つと言われているが、この寓話を字義どおりに解釈する者などはいない。燃え続ける《火》は、どんな生き物の肉体をも破壊しこれを腐敗へと転化させるし、土塊を溶解させて硝子化させ、もっとも硬質の材木、あるいは混成資材をも灰に帰してしまう。けれども《水銀》は、どの部位すらも火によって分離されることがない数少ない例外であり、完全に揮発することで性質を変じることなく火から存続する。容赦なき死刑執行人たるウルカヌスは、諸元素から混成複合された万象に命じて裁きをくだすが、これに対しては、ほんの幾つかの稀有のものだけが特別な権利、すなわち万物の女王たる自然の大恩によって、この審判から免除されるのである。補助判事としてアレオパギタに参与せぬかぎりは、自然の大恩をこえてこの処刑人に権力はないのである。《火蜥蜴(サラマンダ)》もまた、処刑者の猛威の範疇から逃れてありこれを恐れることはない。

 アヴィケンナは*『門(ポルタ)』のなかで肉体におけるさまざまな気質の差を挙げ、これらが場合によって不均等であるがゆえに、《火》やその他の脅威にたいする脆さがしょうじてくることについて述べている。しかし、ここでは、ただひとつ気質の完全な均衡をもつものが確かに存在するとも述べられており、《冷》と同じだけの《熱》、《湿》と同じだけの《乾》を持つそれを、医師は重量でなく《義》によって測られると主張している。この物質の内部では、《火》がその対極たる《水》を親密なる《風》へと分解還元せんとするが、しかしこれは《水》と親密なる《地》によってよしとされず、《火》は《地》と親密であるがゆえこの要求に賛意を示して是認する、そうした能動原理よりもつよい受動原理がはたらいているのである。ウルカヌスの審理、《火》による処刑が中断するのはこのようにしてであるが、しきたりに従うならば、未だ《地》は灰燼に帰されんとしている。しかし《水》は《地》に硬く結んで容易には離れず、《火》に異議を申し立てる。曰く、自身が《地》《風》と結ばれていることは、対極でもまた《火》が《地》とともにあるのと同様、ゆえに《地》を灰に変えんとせば、諸元素を敵に回すにおなじ。かくしてウルカヌスはその審理を中断し、これに落胆こそすれども、それがゆえに滑稽を仕出かさずに済むわけである。

 内部で諸元素がその力を均等に拮抗させているこうした状態こそがまさに《火蜥蜴(サラマンダ)》であり、これに関して『薔薇園』にはゲーベルの言説が引用されている。「賢者はこの水銀体を死んだ状態で見出すであろうが、その水銀の中にこそ尊き石が存するのであり、これは誰にも明白なことである」さらに「また賢者は水銀体を凝固させうる。凝固の方法には多くの注意と手腕が教示されているのであるから、これは明らかなことである。あの高貴なる石がいとも堅いというを疑う者があろうか、それ知る者に左様な者は無きなり」こうしたことから石は、凝固の過程を経て《火蜥蜴(サラマンダ)》の性質を帯びることがわかるが、それはいわば極度の硬化状態となることでもあり、それゆえに火を耐えることができるのである。根気よく火に耐えることを学ばねば、石は《火蜥蜴(サラマンダ)》にはなれないし、これにはかなりの長い時間がかかる。

 この後、第三五の象徴釈義にても明かされることだが、アキレスとトリプトレムスは夜ごと燠火にあてられ、いとも苛烈なる熱に耐え、そうした習慣から熱に馴化して《火蜥蜴(サラマンダ)》の特性に達したものである。習慣とは、かくも第二の自然としての性質をもたらすものではあるが、女帝が権力を行使しての変革に及ぼがごとくに、自然が力を賦与しなければ、たとえこの習慣とはいえ、なし得るところは微々たるものであろう。だから火のもとにあって氷を結ぶは不可能であるものの、自然が手を下してくれるのであれば、結晶を形成することなら可能なのである。それと同様のことが、流体でもあり揮発性でもある水銀にもあてはまり、それは自身のなかに、硫黄との婚姻によってのみ凝固するという性質を秘めている。それこそが《哲学のティンクトゥラ》であり、あらゆる浮遊の霊気を固定させるものである。

 
 
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