象徴三四 浴槽に抱かれ風に生まれ、赤くなっては水面を闊歩す。



子を孕みたる浴桶かがやき 子を生みし空に光明あり

やがて来たるは赤なりて 児は水面を闊歩する

かくして児は山頂に至り白く成る

其はいまだ 学徒の無比なる庇護のもと

石にありとも石でなし 天来の高貴なる賜物を得る者

神よりの賜物を得るにおなじ 其者 幸ひなるかな


 驚異的な生誕の系譜を凡俗はるかに超越する人物像に帰すことで自惚や世辞というものは説かれるが、しかしこれらはまったく伝説的なものである。たとえば偉大なアレキサンダーは、マケドニアのフィリッポス王よりむしろユピテル・ハモンの嫡子とされるし、ロムルスやレムルスはマルスの直系とされる。あるいはプラトンは、アポロンの幻影に孕んだ処女ペリクティオから産まれた、などと伝えられる。多神教徒(パガン)の人々には、自分たちが神の直系であることを立証しようとする伝統があり、高名な医師ヒポクラテスの息子テサルスの例にも顕著である。これもまた自身をアポロンの息子であるとアテネ人民に信じさせようとしたものであった。しかし我々はこうしたことを頭から信じはしない。我々には、ここで系譜が求めているものが神でも人でもない存在であることが判っており、限られた命に生きるものどもの世界では、たとえば神々しき誉れを評された英雄が存在したとしても、それは門弟の世辞からうまれたものであったと考えられる。そうした偉大なことどもを虚構も辞さずに語り継ぎそして書き伝えることで、世に広く偉人の名声を響かせようとしたのである。

 しかし賢者らの語る並々ならぬ《受胎》そして《誕生》は右のごとき経緯とは事情をまったく異にする。《哲学の息子》はあらゆるものを凌駕するなにものかを秘めて世に生れ出で、それは浴槽に擁され気中に生まれるものである。熱い風呂が、つよい冷気や乾気で不妊となった女性を癒して懐妊しうるまで回復させるに効果的であるのはよく知られたことであるが、件の《受胎》が《浴槽》になされるとか、あるいはそうでなければならぬというのは未曾有のことであり、これは驚くべき自然の作用に由来する《息子》にのみ相応しい、万象から遠く隔った特異なことのようである。

 賢者らは《息子》が、容器(ヴェセル)の底に《受胎》し、蒸溜器(ランビキ)に《誕生》するとも教えているが、これはかなり率直な教示である。浴槽の水でもなんでも、それは上部や中程にとどまるものではなく底に溜まるし、そして蒸溜器には気体の蒸気が充満する。これがちょうど《受胎》の後に蒸溜器へと昇る《誕生》が白色であるといわれる所以である。これに対して容器の基底部には黒色が優勢なのであるが、これについて『哲学者の薔薇園』は「地が黒粉へと溶解され水銀をとりこみ始める、これが受胎である。男が女として振る舞うごとく、アゾートは地を演じている」と述べている。さらにその先では「摂理のはじまりは、容器の底の腐敗のなかに受胎として実現する。風のなか、容器の頭、蒸溜器に物質が生成する」かようなわけで《浴槽》の中の《受胎》は汚物のなかの腐敗にほかならない。同書『薔薇園』はこれを「物質は腐敗せねば役にはたたず、かつまたそれは水銀なしに腐敗しない」としており、さらには「腐敗は、いとも穏やかな暖かさと湿気ある糞にて為すべし、それ以外には何も要らぬ、さすれば何も昇らぬが、何かが昇ればそこには物質分解が起こる。しかしそれは男と女が互いに完全な結合を遂げ、片方が他方を受け入れるまでは生起すべからざることである、その完全な溶解、融合の徴はみてそれとわかる漆黒である」と述べる。

 山頂に生起する白き《誕生》は、蒸溜器のなかの気体を示す。これについても同様に『薔薇園』へと注釈を求める。「このような仕儀で賢者の言うには「鉱山より取り出して、これをいとも尊きところへと高めよ、山頂から送り、その根源までも還元させよ」ここでいう《山》は南瓜型の容器を意味し《山頂》は蒸溜器である。《山頂から送る》は蒸溜器の上口からの液体を容器にて受け止めること、《根源までも還元》というのは、それが湧出したところまでも戻すことである。*南瓜状の容器は《山》と呼ばれるが、それは金(ソル)と銀(ルナ)が鉱山で見つかるからである。賢者の《山》すなわち南瓜状の容器のなかで、賢者のソルとルナが生まれる」さらに「哲学の子供は赤くなって水面をゆきかい始める。これは、火で溶解した金属すなわち液状の水銀の上を歩くのである。子供は水の支配者であるから、海の王、山の所有者ネプトゥヌスのごとき権力をもって揚々と闊歩する」

 言い伝えによると、ペルシア王*クセルクセスはギリシア遠征の際に、まず海洋とアトス山へと使節を遣わし、波浪や噴火がもたらすであろう災厄を未然に防ごうとした。これらによる報復を恐れたわけである。しかし古譚では、海山は王に耳を傾けることなく、海は数隻の船舶をくつがえし、アトスの噴火は少なからぬ軍隊を壊滅させた。激情に駆られた王は多数の囚人を服役させて山を崩し海に沈め、海をもまた山で埋めてしまった。まさに海山の王のごとき振舞である。しかしこれらは偉大な王の思慮分別よりも、むこうみずな王の性格をあらわにするのみであった。

 だが我々の関心が中心とする者は、ただ命じるのみならず行うことによって水のすべてを障害や不純から浄化し、意の赴くままに水中を通過する。驚くべきことにこの水は硬化し始め、船の往来も可能だった水は戦車の車輪にも耐えるのである。その者、山も丘もひとしくならし噴火なぞ恐れもしない。それゆえに、ヘラクレス柱よりインド沿岸最果つまりディオニュソス柱までも、障害もなしに行進するのである。

 
 
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