象徴三八 二つの山たるメルクリウスとヴェヌスより産まれしレビス、両性具有(ヘルマフロディト)のごとし。



いにしへに其等(かれ) 二重なるレビスと呼ばれたり

なんとなれば其は ひとつの躯に男なりて女なりての両性具有(ヘルマフロディト)

双の山の間に産まると云はれけり

ヘルメスに因みて 悉くを与ふヴェヌスの産みし者なり

両のさが具す者といへども 此を蔑むべからず

男と女のともどもは一心同体 其こそが

汝のもとに王をば齎すであらふ


 ソクラテスは出身国の何処かを問われ、世界市民(コスモポリット)すなわち天地の民であると答えた。ひとりのアテネ人として生まれながら、その心はすべてを内包する全世界を自由に駆け巡り、これすべて故郷とみなす、という態度を示した。生きる術を知る賢者たるもの、何処に在ろうとも寛ぎうるわけである。

《両性具有(ヘルマフロディト)》は何処に住まうのか、これをどこに求めるべきなのかという疑問に哲学者らは以下のように答えるであろう、すなわち叡智の子としての諸元素が存在しうるところであれば、世の隅々まで世界中のどこにも存在しうる、さればこそ諸元素とともに邦土をわかちあっていると。

 もちろん二度三度の複数に生まれたり、ところ変えて出生することなどは誰にもできることではなく、流石に賢者ソクラテスが自身をアテネ人として認めるところである。《レビス》が《ふたつの山》に住むものであるのもこれに同様であり、換言すれば《山》はメルクリウス=ヘルメスとヴェヌス=アフロディテ、それら両親の名に因んでこれは《ヘルマフロディト》と名付けられる。

その住まうところが山地であるというのは、出身の高貴さを意味するので、高位より与えられたものによって、その存在は恩恵を受けている。高貴で偉大な故国というものが、偉業なしとげる者にとっての助けとなるところは少なくない。このような生まれの者は官職にも登用され、不遇に生きることはないのであるが、それとふさわしい才能をもつ者でも、生まれによっては薄幸から、母国の栄誉まで昇るに困難をともなうものである。

 世の誰もが知る、その輝かしき行為とその名《両性具有(ヘルマフロディト)》によって、ふたつの山々は美名を甘受しつつも、多くの者にとってこれらは未知である。しかし、哲学者らの書物に少なからず通じた者がこの名《レビス》を知らぬことがあろうか。双頭の両性具有者(アンドロギュヌス)を目にしてこれを考究せぬ者があるだろうか。その名は遠くインドの地までも届き、アレキサンダー以上の版図を広げている。見聞を求め、導師との語らいを求め、あるいは戦に名声を、技芸深めんと欲して母国より遠く旅する者は数多あるものだが、一旦《レビスの山》の何処にあるかが知られれば、より多くの者たちがこれを目指すこととなろう。

 モリエヌスはその著述のなかで、いかなる入念な研究をへてよりローマを離れ、導師アドフェサス・アレキサンドリヌスを懸命に探し求め、ついにこれに出会うことを得たかを述べている。かくして物言わぬ書物でなく生きた先達に出会えたところに、いと幸運にも神に受け入れられたことが現れており、ここから学びとってこれを目の当たりにしたのはまさに《レビス》の故郷であったのである。みずからの判断と書物によって《レビス》の故郷を求めるのであれば、いかなる精励刻苦を惜しんではならない。これについては明確に述べられることが殆どなく、しかも謎に覆われて複雑かつ朦朧にかすんでおり、他からこれを識別するのは容易なことではない。医薬の調合を志す我らが誤って毒物を造ることなどなきよう、注意深く書物を読み進まねばならない。

 書物というものは広漠たる大海のようなものである。熟練した水夫はその航路を決するに、地平線の向こうに赤道からの距離を読んで緯度を測るため、天体観測の器具や北極を示す方位磁針を活用する。しかしこれらを用いても、幸福島の子午線(グリニッジ)からの距離すなわち経度の位置を知ることはできないので、船の東西位置は不明確なままなのである、これには如何に対処すべきか。水夫たちは経験と推理によって長き航路を決定する。岬や崖、島々の有無などそれと特定しうる兆候を考慮しこれを避け進む。過ちはすなわち海の藻屑と消えることにつながる。航路上の海難は財産も生命も一瞬に奪うものであるが、しかし《哲学の作業》に於ける難破の危険はさほど大きなものでもなく、成功から得られる利点は大きいのである。

 さて件の《哲学の水銀(メルクリウス)》の山はナノクリスでもアトラスでもなく、しばしばはっきりと《ふたつの山頂》を持つパルナッソス山であると伝えられることがある。それぞれの山頂の片方にはヘルメスが、他方にはヴェヌスがいるのであるが、ここではアポロンやミューズに出会うこともできよう、そして緑褪せることなき月桂樹の生い茂るそこには翼馬ペガサスの蹄から湧き出したヒポクレネの泉もある。このように《山》は名に於いてひとつ、その実体はふたつ、一体に男女両性を具有する《ヘルマフロディト》なのである。しかし《山》の頂きに至る道程は厳しく、何事に屈することなくこれを極めうる者は、幾千のなかにもそうは居るまい、なんとなればこの《山》は中腹までですら到達する者はきわめて稀なのだ。

「急峻の極みをめざす者は、茨の路を登攀せねばならぬ、その困難のもと、恐るべき緊迫に責め苛まれ、夜にはオリーヴの樹のもとに身を寄せれど、眠ることも許されぬ疲労が襲う、永遠の誉たる月桂冠を授かるべき者であったはず、その、自身に向けられた賞賛をさえいまや悔いるほどにうちひしがれる」してみればもはや疑う余地もない。不朽の栄誉として月桂樹の王冠を求め山頂を極めんとする者、そのヘラクレスの偉業を果たしうるのは、幾千の挑戦者のなかでもたったのひとりきりなのであって、高潔に学問へと精励刻苦する者がそれに相応しい霊の美徳を享受するのである。

 
 
inserted by FC2 system