象徴四五 太陽(ソル)とその影によりて作業は完了す。



太陽 その天の輝ける松明は密なる物体を貫くことなし

こは背裏に陰影をこそ落とさむがゆえなる

よろずのうちに影などはつまらぬもと思はれど

天文学者にとりては意味深長なるものなり

哲学者にとりてもソルとその陰影の賜物なるは

黄金を造る術の成就を意味するがゆえなり


 輝く光が放射状に、上にも下にも全体を等しい輝度で丸く球形に照らし出せばその反面、卓子やら椅子やらの家具がその波及作用を遮断するところには暗い影もまた断片的に生起している。広漠たる天空の蒼穹にうかぶ太陽もその光線で天の隅々までを照らし、惑星も恒星もあらゆる星々――霊妙に受光する《天体物質》――を照射する。しかし《地の厚み》が光線を妨げているところには黒い影ができる。これが闇あるいは夜と呼ばれるものであり、やがてふたたび太陽光によって駆逐され光が注がれて夜に交代するまでこれは長く続く。《影》あるいは《夜》は太陽光の性質欠如とも不在ともいえその反対に昼光は太陽光の光輝照射あるいは周囲への放散といえよう。太陽の勢力圏内では《影》は存続できず自身を隠そうと太陽を避けてその反対側に回り込み地表をあちらこちらと移動する。たとえ自然がそれを許そうとも太陽光と《影》が互いに出会うことは決してなく、それぞれはいついかなるときにも反目し合う。天球圏についての書物のなかでブキャナンの主張するところでは、太陽は《影》の仇敵とされながらも常にこれにつきまとうも《影》はこれに困憊して捕まらじと逃げ続けるのである。偉大なる太陽とその《影》における事象に倣って、哲学者らは己の求める太陽にもまた黒く立ち籠めてただよう《影》のあることを観照する。ヘルメスの言辞には「学徒たる者、光から影を引き出すべし。ウルカヌスの統べたる(第十天の)動因によりて天陽を運行さすべく注意を払へ。かくして汝が《地》の一部は夜影に覆われつつもやがて輝ける太陽光を享受せむ」というものがある。天の蒼穹は造物主による第一動因によって動かされているがゆえにこそ一日二四時間の自然分割を与えられているが、これがもっぱら第二動因すなわち太陽の年間運行のみに因るのであれば我々の対蹠地は六ヶ月の夜を過ごし、対して我々は六ヶ月に渡るながい昼日を送ることになってしまう。すなわち一日の場合と同じく、一年間もまた一昼夜によって成り立っているが、これはまさに二本の柱ともいうべきものであって、経験的かつ理論的な真実である。惑星は神の摂理のために第一と第二の作用を受けており、かくして一年というものは多くの日にも細別されているのである。

 太陽と《影》がともだって昼夜を形成すること、これは太陽が在るというただそれだけでは不可能なことである。向かい合うあらゆる物体や場所へと光線を照射するのは太陽の特質であるが、その不在が《影》を造り出すのはただ(付随的な)偶発事なのである。これとおなじくして《哲学者の太陽》はその《影》とともに光の昼と闇あるいは夜をつくりだす。太陽はラトナあるいはマグネシアであり、《影》は(デモクリトスが『黄金台』第三巻の冒頭で述べたように)燃え盛る医薬によって彼らから駆逐されるのである。

 《影》が天文学的に大きな意義をもたらしそれなしに科学の進展はありえなかったように化学的な術の完成もまた《影》に帰される。一体に《影》なき太陽がなにものに成り得ようか。それは釣鐘(ベル)なしの鳴子のようなものである、たしかに鳴子は音を成す第一因であるが釣鐘(ベル)こそは楽器なのである。竪琴(ハープ)を弾く爪、言葉を紡ぐ舌ともいうことができよう。《影》は謙虚かつ卑しきものでありそれだけではなにものでも無いのである。哲学者の《影》もまた黒く《黒よりも黒い》と評され、その価値は《雑草にも劣る》とする者すらいるほどである。勿論これは《影》自体の絶対的価値ではなく、あくまでも人間の認識による相対的表現なのであり、《地・水・風・火》への評と同じである。《火》よりも役立つもの、《水》よりも尊いものとは。愛らしき花や植物を産する《地》よりも愛すべきものとはなにか。それなしには誰も生きられぬ《風》よりも爽やかなるものとは。こうしたことにもかかわらず、それらは人間の周囲にありふれて在るがために人間は認識を誤り、こうしたものを取るに足らぬものとしか思わぬのである。《影》もまた、一般的なそれも哲学者のそれも過小評価されるのである。だが永く地下の影に居って闇の中に留まる者、突如として目映き光のもとに引き出されれば盲目になってしまうであろう。哲学の術においても同様に、光も与えられずながく哲学の影の中で彷徨いながら作業をする者は自身の判断洞察を失い、結果に至ることはないのである。

 中天にある太陽は温暖を際立たせ影を最小にさせる。温暖が高まるとき影が小さくなるのは哲学の作業においても同様である。かくして南側から我々の極すなわち《子午線》――磨羯宮――へと太陽が戻るときに作業は開始されるべきである。さらに作業の最初の段階は太陽が白羊宮にあるときに完遂する。そして獅子宮にある間に《女の仕事》は開始される。そしてそのあと、まるで蛇のように、年が自らの頭で自らの尾を掴むときに、ひとつの作業が他から前進すれば、それはいわば完了である。

 
 
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