象徴四七 東からは狼が西よりは狗が、互いに咬み合う。



日出るところより狼の来る

日沈むところより狗の来る

いみじく激しき怒りに満ちて身を震わせ

かたや真向より喰ひかたや背後よりいがむ苦悶の激情なり

そはどちも怒り狂ふがごと口腔大きく開け放ちをる

そらはこもごも不可分なる対の石 何処にもある常(なみ)のもの

何時なれと何処なれと汝がそれと判ずるならば


 賢者らの遺した夥しい書物は二種の石について注意を促しており、たとえばアルノーやイサクはそれを対価なくありふれて我々の手に入るものとし、アヴィケンナは汚物のなかにあるがゆえに卑俗なる者たちからは軽視されているがひとたび結合されれば《賢者の石》を完成させると主張する。あるいは西方から取り寄せた水銀を重視する者もあるがこれは金に対して身を延べてはこれを包み込むからである。しかし『太陽と月の婚姻』の著者はアリストテレスの書簡を引きつつふたつの石について他に類なき見事な記述をなしている。「斯術はふたつの石を要しこれこそ術の根幹、感嘆すべくも自然の性あらはれたる白色のそれや紅色のこれなり。白色石は陽の没まむとするに水面に姿あらはし宵にかくれ深淵に降りゆく、されど紅色石のなすところこれにたがふは陽の出づるに水面にのぼり昼方に姿さらしては深淵に降りゆくなり」既に述べてあることだが、これらの石は二匹の鷲でもあってユピテルがデルフィから送り出したそれである。言い換えればこれらはまた《狼》と《狗》でもありそれぞれは相反する方面より来って互いを咬み悩ましては狂奔するのである。ラーゼスはその『書簡』にて「これらの石のベゾアルなることまことに偽りなし、東方インド由来のそれは野生動物の臓腑から取り出され、西方インドすなわちペルーより産するは効験うすきものなれど家畜より得られるものなり」と明言している。東方は獰猛なる《狼》を、西方はひとに親密である《狗》をもたらすというわけである。敢えていえば、硫黄は東方に由来しおなじく水銀は西方に由来するということである。一方は怒りに満ちて獰猛であるが他方はやわらかで御しやすいものであり、そしてその異質さは出会うやいなや互いにむさぼりあう。まず、その大きさゆえに《狗》は《狼》を打ち負かして最初の勝利を手にし相手を瀕死の状態にまで追い込むのであるが、その後に力を取り戻す《狼》は《狗》を打倒しこれが再び蘇生して悩まされること無いように征服し尽くしてしまう。しかしここまでくると《狼》は《狗》に与えただけの致命傷をすでに自身にも負っているので各々たがいは瀕死の重傷を負ってしまっていることになる。

 ゾシモスはテオセベイアに向かって《狼》について以下のように教説している。「勇壮な兵士、二項対立の征服者、ひじょうに価値高くもっとも剛き力有すもの、触れる物体をみな貫き、仮象に白く現象に赤く、ルナを妻に娶る男性――これを金とみなす者もいるがそれは金がひじょうに見事に結合されておりその凝結は決して溶けることなく足跡は決して拭えず(あらゆるものを染色する)からである――これこそが選ばれし聖なる賢者に神が授け賜うたものであるが自然はまたそれに敵うものをも設えることも汝は識るべし」

 その先では「硫黄というものはじつに剛い力を有しており火に飲んだり飲まれたりしながらもこれに能く耐える。そしてこの結合からはもっとも重視すべき色彩があらわれるのである。もともと揮発性の性質をもつ硫黄ではあるが、これでもはや揮発することはできなくなる。これは魂がそこへ穿孔したということである。染色素としての魂は肉体を突き通してこれと混合し、肉体は魂を内包して魂が離れることを抑え込むのだ」とある。

 それではいずれの《石》がより強力なのかという問いにゾシモスは以下のように答えている。「石ならぬ石はその敵よりも強い。その耐久力ゆえに相方から力を得てしまうものよりも紅色石が強いとなれば、たとえそれが勝利を味わうこともなく敵とともに倒れ行くとしても、東方の狼は西方の狗よりも強いといえよう」

 着色性の毒素を発するのはどちらも同じである、というのも狼と狗には違いがほとんどないからで、大型の犬であれば狼とは同じような姿形であるし狼は長い世襲を経れば人間が飼い馴らすこともできるのである。これと同じように硫黄と水銀にも大層な違いはないのは、互いが互いに由来しているからである。水銀は硫黄を生み出すのであるが硫黄は水銀を浄化するので、それをそれと成した拠り所である。ゾシモスはこれについて「その色素はあまりに苦き苦さに由来している、そしてその苦さは金属種の不完全さに起源がある」としている。


「その色彩は何に由来するのか」「いとも激しき苛烈さより」

「苛烈さとその意味は何に由来するのか」「金属の不純さによりて」

「その紅き色彩はとりわけ重要なる輝きや」「左様なり」

「そは火を越えたる熱のものなるか」「その紅さは火にすればむしろ水の如きものなり」

「火より強きものにはなきや」「否、集まりし火は互ひにほろぼし弱め合ふものぞ」


 それゆえに、このように言えもしよう、一方は他方の食餌かつ滋養物である。片方が増加すればそれにともなって他方は減少することは、まさに龍が蛇を喰らうがごときものである。

 大きな戦闘の場では、しばしば大被害を被った軍勢のほうが却って勝利することがある。打ち負かされた《狗》は瀕死といえども征服されたわけではなくいまだその敵を素早く捕捉することが可能であるが、しかしそれは他方がそれなしに生きられぬ故にであって、それ自身もまた他方がなければ存続することはかなわないのである。

 
 
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