象徴五〇 龍は女を殺し、彼女は其を殺す。彼等はともども血の浴槽に浸かる。



深き墓を掘るは 有毒の龍のため

ひしと抱き絡むべき女のため

婚姻の褥 むせぶ歓喜に女は死に

龍も女もともどもに葬らる

死したるままなる躯へと染み入る血

これこそ汝が術の進むべき道


 龍の巣は《地》の洞窟にあるが人間の住むは《風》に晒された地表である。《地》と《風》これらふたつの元素は相反するものではあるが、一方が他方に働きかける仕儀で術師はこれを結びつけるべく定められている。これを可能にするのは《女》であるがバシリウス・ヴァレンティヌスのように《鷲》として解釈する者もある。『十二の鍵』の第二ではこう語られている。「アルプスの高みに鷲を営巣させるのは容易ではないが、これは鷲の子が山頂の雪の冷たさに死んでしまうからである。けれども岩の奥に住み冷たく歳経た龍、地の洞から這い出てくるものを、この鷲へと結びつけて共々に地獄の墓へ安置すれば、プルートーンは風をおこし、その持続力は冷たい龍のなかから燃えさかる揮発性霊気を引き出し、その猛火は鷲の羽を燃やして蒸気風呂を沸かすに至る。それは山頂の雪を溶かし水に換え、かくして王に健康と繁栄を与える鉱物風呂の準備が整うのである」

 冷たき龍が燃えさかる霊気に屈するというのは驚くべきことであるが、しかし蛇を燃やせば毒気の炎があがって近づくものを中毒させるということからもこれが事実であるといえる。化学的な価値を秘めたものが《火を吐く龍》とか《金羊毛の守護者》とか《ヘスペリデスの園を守る者》と呼ばれたり、あるいはカドモス王の例にみることは故なきことではないのである。

 地中深く岩の間隙に住む龍、これを我がものとせねばならない。そしてこれを女の場合は墓、鷲ならば巣のなかで結合させるのである。鷲の卵をねらう龍はこれと決死の闘いを繰り広げる性質があり、またギリシアの著述家は、処女と恋に落ちてこれと同衾した龍についての故事を記している。それゆえに術師がその龍をば女ともども洞窟に封じ込めたとて如何なる不思議もないのである。ヨドク・グレベリュスは山の深淵にて紅龍と黒龍をともに結び火にこれらを燃やすが、黒龍が死ぬにあたり「山の守護者は隅々よりそを集めそを山にもたらす」といっている。それを信じうる限りに於いて、メルリヌスの幻視では白と紅の龍が言及されている。いずれにしてもこれらの龍は一方が女あるいは雌龍であり、他方とともどもに死ぬまで相互に作用しあっては、それぞれの傷口から血を迸らせ、浴槽にてこれに浸かる。

 以上のことから、龍とは《地》と《火》の元素であり、女とは《風》と《水》のそれであることが判る。『角笛の響き』では「龍は水が蒸溜された跡に基底部に残留する物質である」といわれ、ヘルメスによれば「気中のみずは天と地の間にありて万物の生命なり、みずは物質を霊気へと溶解せしめ死せるものを活けるものへと換え男と女の婚姻を成就せしめ術ぜんたいの恩恵を形成す」また《地》について曰く「さらに識るべし、ひとの常々そのうえを歩き慣れた土塊などをまことの地の元素とは思ふべからず。左様、そはまことの第五元素によりて構成されしものなり、第五元素物質はその元素的形状の肉体を捨て去っておらず、そこから地は形成されり」と。さらにその先には「純粋無垢のまことの元素たる火すら焼くことかなわぬものは、地の深奥にありてこれこそがわれらのかたる龍なり。龍は地の深奥、そは熱気苛烈なるところといへどもこれに入り込みては猛々しき熱を飲み込む。女あるいは鷲を燃やす熱もつ故はこれがためなり」とある。

 一方、女あるいは鷲は揮発性の水でありそれを白き天空の鷲と呼ぶ者もある。それは卑俗の水銀や昇華した塩から得られるといわれることもあるが、こうした教示に従う者はリネウスのように自身を賢い者と慢心してはいるもののまったくの盲目というべきである。ベルナルド卿の『書簡(Epistle)』をこそみるがよい「実際、私があなたに伝えておきたいのは、自然還元で金属種を溶解できる水などありうべくもないということです。しかし質量と形相のなかに残る液体にはそれが可能なのです。そしてそれは溶解した金属を凝結させる力をも有しています」さらに「溶解した状態のままで物質に属さない流体は、凝結した状態でもそれらに属すことはない」同一書のさらに少し先には「理解しておいてほしいことは、自然によって蝋状の性質をあたえられた膏油はきわめて自然の状態で安定しており、物体に浸透する医薬を形成するもとになります。この膏油は相容れぬ異質の物体の統合から調合されるのではありません、もっぱら溶解された物質の核心からのみ抽出されるのです」

 以上を解する者であれば、真の意味において鷲あるいは女、そして龍というものを理解するであろう。術のすべてに関わるあらゆる奥義はこれらの格言に於いて理解される。我々は斯術の学徒らへと自然の深奥をひらき、おそらくは秘密をあけすけに語りすぎたかもしれぬが、これによって我々は神の栄誉が讃えられてあることを意図するものである。かくあれかし。

 
 
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