黄金の鼎

第二論文


化学の論考

あるいは

英国人トマス・ノートンによる

「我を信じよ」あるいは

錬金術の叙階定式書


ノートンの化学論考に寄せてM.Mによりて記されし銘

その豊かな流れによりてナイルの河が周囲の地域を潤し、富の約束、悦ばしき収穫を秘めし泥土にて覆うが如く、ノートンが天稟はその河岸を広く遠く流れ、自然の輝かしき営みを我らに識らしめる。かれは自身を四方八方の広大無辺の空間に広げ、錬金術の土地を肥沃にするであろう、かくして此処に従事する農夫を悦ばしめよう。汝、もし幸運あればこの広漠たる水流のもとより得よう一匹の魚からすらも、心からの渇望を潤すことであろう。汝もし成功を失すれども、汝が心は得がたき知識の宝物に満たされ、その骨折りに応じていずれにせよ豊かなる報酬を得ることとなろう。ヘルメスの宝物は一冊の書物には存せず。或る先達の記せしこと、他の説き尽くさざるを明かさむ。


論考「我を信じよ」あるいはトマス・ノートンの叙階定式書


著者自身による第一序文

この書は秘伝的知見に開かれたものである反面、庶民の無知をも助長する。道義を求め富を増し、渇望する者の貧困を駆逐する書である。王侯への勧告、聖職者の垂範に満ち、真実に信を置くべき書であり、罪の汚点なく生きようと望む高徳の人物にこそ資する書である。神の賜物たる秘められし書、ひとに真なる望みへの途を選ばせ、かたき信仰を永続させる支えとなり、我が言葉に確固として信を置く者に向けられたものである。錬金術というものは、正しき者にも誤った者にも求められる。誤れる探求者は無数に存するが、それらが受け容れられることはなく、その多くは獲得の欲望に駆り立てられている。幾千ものうちにあって稀なる三者のみが選ばれる。知識のもとによばれる者は数多く、高貴なるも卑しきも、識者も無知なるも様々であるが、だが多くは骨折りに服し刻を待つことを知らず、かく不敬なるがゆえに終局へと到ることがない。我らの術の書はそうしたことへと、神が惜しげもなく知解させた英知の息子らへと注ぐ光のように明らかである。ただそうしたもの達にのみこの預言的なる言辞をば信じさせよ。感謝の念いだく者には神聖なる愛の泉よりすべてが流出するのである。

この高貴なる学問は、衷心より正義を愛する者にのみ授けられ、欺瞞、背信、粗暴なるは拒まれる。そうした罪が、神の賜物の到来を妨げるからである。

この知識は、その望みがかたく神の元に置かれたとき、英国王侯の栄誉ともなってきた。この術によって道義を究めんとする者は古きしきたりを改め、これをよりよきものに変えるであろう。こうした者が現れたときには、かれは王国を作り変え、その善と徳によって永久なる統治者の範となるであろう。そうした時代を人々は享受し、相互の人間愛のなかには神への賛美が尽くされるであろう。嗚呼、かくのごとき王よ、これらすべてを成し遂げんとする者よ、神に祈りて慈悲をば懇願せよ。汝の理想の輝きはもはや未来に望まれぬであろう黄金時代の栄誉に戴冠されるべし。


第二序文

唯一なる神への帰依のもと、この書は三者のうちのひとりによりて記された。我が死後も、学べる者や学ばざる者のすべてがこの善きみちびきに従い、作業の開始にあたって如何にこれを熟考することであろうか。斯様な者は錬金の術をつうじて偉大なる宝を手にすることであろう。しかしまた、この書は学べる者にとってはすでに恐るべき秘密の宝庫でもある。いまだ学ばざる者には、畏れとおののきをもってこの術を学べとこそ忠告しよう、なんとなれば犠牲おおき実践を勧める者の誤った惑わしや高らかな大言壮語により、初心の者たちが錯誤に導かれてはならないからである。私はといえば、言葉の与えうる名声などはなにひとつ求めない。ただ汝が神へと祈ることだけを望もう。私の名を口にする必要などはない。誰しもが、著者によって苛まれることなく、そして書物の意義へと真摯な目を向けうるよう。なぜかくも篤く、人々がこれを求めるかを尋ねることあれば、ほとんどの者がただ富とものほしさから錬金術の探求に心血を注いでいることがわかるであろう。かような人物は高位枢機卿や大司教、高邁なる位階の司教、大修道院長や神聖なる修道会長、また隠修士、修道僧、世俗の司祭、王侯貴族、高い地位の君主らのなかにすら見出される。あらゆる身分の人間が我らの到達のわけまえにあずかろうとする。商人、鍛冶場の制作に勤しむ者もこの術への欲求から逃れられぬ。市井の機械工もまた、これへの参与から除外されることを甘んじることはなく、誰しもが、あたかも偉大な君主に向かうがごとく恭しく術に接しこれを熱望する。金細工師らも知識への渇望に身をやつしているが、それは熱望するものを目前にいつも見ているのだから大目に見るべきではあろう。しかし機織や石工や仕立師や製靴工、困窮した聖職者までもが哲学者の石についての普遍の探求に参与せんとするのを、我々はまことに奇妙に思わざるをえない。画家や硝子工までもが自制を失うのはともかく、修繕屋すらこれを手段にして地位を上げようと大志を抱くのは出過ぎた真似であって、硝子を染める色素くらいのもので満足すべきなのであろう。しかしながら、こうした多くの職人たちはその信用を軽々しく詐欺師に預けてしまっては騙されてきた。詐欺師らはかれらの金を煙と変える助けとなっただけであった。その損失に失望させられ、痛めつけられたにもかかわらず、そうした者たちはまだ楽観的な考えで望みをつなぎ、最終的には目的に到達できるだろうと期待を捨てられないのである。私が知っているだけでも、なんと多くの事例があることか。人生の長きを欺瞞の期待に湧かせたあげく、ついに惨めな貧困のうちに死ぬのである。失望と心痛のほか何物も手にすることはできぬと知り、すぐにでもその打つ手を抑えたほうが彼らには良いとこそ思われる。まことにもって、よく学べる者でなければ、この術に手出しする前に踏み留まるがよい。我を信じよ、あらゆる秘奥が科学に繋がっていることに通ずる、これは決して軽々しきことではないのである。いや、これこそが深遠な哲学、確かな科学、聖なる錬金術——これが私がここに、奇天烈な文章でなく、確然と、平明な文体にて記さんとするものである。なんとなれば一般的な人々を導かんとする者は、かれらの理解しうる言葉で語るべきだからである。だが、平明かつ簡素な文体で述べられているからといって、読者が手厳しくも私を軽んじて良いということにはならない。私に先んじるあらゆる書物が、詩的なイメージ、寓話、象徴などを過度に使用しては物事を曖昧かつ難解にし、そしてこの知識の領土に初めて入り込む者の前途を嘆かわしいほどに遮断してきたのである。これが、そうした教訓を実践しようと努める初心者がただ苦境に陥り金銭を失うに終わるという茶飯事を生む理由である。ヘルメス、ラーゼス、ゲーベル、アヴィケンナ、マーリン、ホルトゥラヌス、デモクリトス、モリエヌス、ベーコン、ライムンドゥス、アリストテレス、さらに他の多くの達人たちは、その意図するところを暗黙の帳に封じてきた。ゆえに彼らの書物、かれらが我らへと下したものは、庶民と学徒にとっての終わりなき錯誤と欺きの源でありつづけ、美しい意匠に満ちているにもかかわらず、そうした言葉の荒野のなかから通り道を見出すことは誰にもかなうことなく、多くが自暴自棄にさせられてきた。アナクサゴラスは『自然変成について』において、他の者よりはるかによく自らの任を果たしている。私の読んだあらゆる古の賢者らの書物にくらべ、かれはもっとも平明に我らの知識の基礎を開陳している。だがこの理由においてアリストテレスは激怒し、多くの著述のなかで彼を過酷に攻撃している。私の見る限り、その目的は、人々がかれに従わぬようにすることであるが、アナクサゴラスは英知と愛に満ちている。彼の者の美徳に、天にまします神の報いんことを、そして敵意と憎しみの種を蒔く者の悪しき行いを許されんことを。悪意や戯れの好みから、幾千もの処方を述べる勿体ぶった書物をものする僧侶の書物が各地で転写され、数え切れぬほどの学徒を欺き裏切り、そして彼らを貧困へと陥れてきた。たしかにそこには真実が描き出されているのではあるが、人々は偽金作りや詐欺師へと変えられてしまってきたのである。このような悲劇をみるにつけ私は哀れみをもよおし、言葉すくなに真実を記そうと駆り立てられた。汝が私と、私の言葉へと充分な注意を払うならば、誤りと偽りの教えへの忠告となるであろう。偽りと欺瞞に満ちた汝の「秘法の」書を捨てよ、それらは信ずるに値しない。しかしながら、箴言には十全の注意を向けるべきである。なにものもそれ自身の本質的原因なくしては作用することはないのであるから、自称「実際的賢者」に従うのは明白な誤りである。彼らは事物の原因を探求することによる知識の堅固な礎を据えていないのである。それゆえ汝は、この極めて重大な規範を絶えず心に留めるべきである。「何故」と「如何に」を完全に解するまでは、決して実験に取りかかってはならない。またこの術によく進歩を示す者はあらゆる欺瞞を孜々として避ける必要があるのだ。神は真実であり、この術をひとに示したのは他ならぬ神であるゆえに、わずかな虚偽の汚損にもけっして濁らぬよう、己を保つべきである。永遠の原理として留意せよ、いかなることがあっても「混ぜもの」の金属に手を伸ばしてはならぬ、白色化(アルビフィケーション)や黄色化(キトリネーション)のみを達成しようと努めるもののように。軽信の輩を騙さんとして、偽金作りは偽の銀や偽の貨幣を造ろうとするが、それらはけっして偽金鑑識を通過することはできない。神は、真実よりも虚偽を目指す者が誰ひとり、この神聖なる術へと到達することのなきようなさしめた。もしだれか神の恩寵を得てこの術の秘奥に到達する者あれば、それは必ずや正義と真実を愛する者であろう。とはいえ、外的なの権威によって、この術についてあまりに心よりの熱望を抱かせてもならない。みずからの労働の果実を享受する者はあるがまま充分な富に満足するものである。こうした者が様々に異なった作業過程に苦しんで時間を無駄にすることがあってはならず、『錬金術の叙階梯式書』、我を信じよ(クレデ・ミヒ)と呼ばれるこの書の指南に従うべきなのである。これこそが永遠不滅の規範となるであろう。定式書というものは司祭の日々の聖役を教え、司祭らはこれに従わねばならぬのであるが、あらゆる真実と有用な教えを記した難解至極な錬金術の書物はここに適正な手順として記されておる。ゆえにこの書は、謙遜な文体にやすろうておるものの、尊き科学の獲得者にとりてははかりしれぬ価値を有し、記された真実を否定しうる者はあるはずもない。私が神の慈悲によってこの術を会得したごとく、私は信義の許すかぎり——私は最後の審判のそのときに下される神の言葉を忘れてはいないが——汝に七つの章を書き記そう。

第一章では、通俗から出た如何なる人物がこの知識を得ることができるのか、そしてなぜ古老らが錬金の術を神聖なものと見なしたかについて示す。

第二章では、この術に従事した者の賢き愉悦と長き作業について述べる。

第三章では、我が同輩の目的にかなうよう、アラビア人たちがエリクサと呼んだ石の構成要素を正確に記述する。そこで汝は如何にしてそれが手にはいるかを学ぶであろう。

第四章では、この術の粗野なる領域となり、これは悪臭に関することで、潔癖な人々に役立つであろう。

第五章は、学べる者にのみと神が定めたもうたさる過程に言及する。しかしこれは数少ない智者のみが到達しうるところである。奥義はじつに、ほんの一握りの者しか手に入れることはない。

第六章は、配合比率の問題と、上なる天球のもとの世界の調和を扱う。これについての正しい理解は、我らの驚くべき術にかんして多くの学徒の偉大な助けとなり、大きな補助となるを誓うものである。

第七章では、汝の火が統御されるべきところの原理が確然と記されるであろう。

嗚呼、我が主よ、我を導き助けたまえ、我は義務を果たすべく自らを引き締めねばならぬ。この書をひもとくさだめに導かれし者には、我が魂に祈りつつ余の記せしところを改変せぬよう希う。良かれ悪しかれ、私がもっとも恐れるのは破門である。意識がおぼろげになるときには、これを思い出して秘奥を守って欲しい。決定的な文脈にて一文字でもが変わってしまえば、書物全体の価値は損なわれてしまうであろう。私が記したことが無傷で損なわれていないかを吟味せよ。これら言葉は平明であっても、極めて重大な真実が秘められている。一度や二度読むべきものでなく二十回は読まねばならぬものである。汝のもっとも良い計画は錬金術について多くの本を読むことであろうが、この書物はその最後となろう。



トマス・ノートンの

化学の論考


第1章


第2章


第3章


第4章


第5章


第6章


第7章

 
 
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