Tomas Norton ‘Ordinal’ 第1章


いとも驚くべき自然変成力たる大錬金法とは聖なる錬金術の染色素のことであり、聖なる哲学の奇跡的科学であり、全能の神の慈悲によりて人の世に下された唯一の賜物である。それは、人の身が手の働きによってのみ及ぶものでは決してなく、ただ天啓と導師の教えによってのみ到達しうるところである。それは、如何なる者が望もうとも決して金で売られたり買われたりもされず、ただ有徳の士にのみ神の慈悲をつうじて容認され、長い労苦と時の経過の中で完成されてきた。それは人間界を救済するためにもたらされ、虚栄、期待、恐れにに終止符を打ち、野心、暴力、非道を駆逐する。そして、災厄に拉がれることのなきよう、ひとを苦境から救うものである。その知識を完成した誰しもが窮境を脱し、中庸の路に充足する。この術を呪われたものとして貶む者もあるが、それは異教徒——神は如何なるよきことも彼らに授与することを望まない。その頑迷かつ剛愎なる不信心が、あらゆる善の因の獲得を不能にしているからである——もまたこの知識を獲得していることがあるとされるからである。更に我らの術は、他ならぬ金と銀を、生み出すと断言してもよい。こうして造られた金や銀はもちろん貨幣へと鋳造することもでき、杯や指輪にも変えられるが、賢者たちはこれを、地上における万物のなかでもっとも小さな価値として述べつつ是認している。この学智を目指す者のなかには、この側面から判じて術を聖なるものとは見なせないと主張する者もいる。この主張に我々は、我らが真実として知るところを答えよう。この術の科学は善く高潔な人生によって相応しい者として自らを証明しえない者、その知識と徳目と真実の愛によってこの高雅なる賜物に相応しいと己を示しえない者に完全に明かされることは決して無く、永遠に封じられているのである。

また、学徒を導くべく神より遣わされた人物がなければ、この術に到達することはかなわない。斯道はあまりに壮麗かつ驚嘆すべきものであり、口頭によらねば完全には伝授されないのである。さらに相伝さる者は偉大なる神聖の誓約を立てねばならぬ。導師たるものは軽薄な栄誉を熱望することはなく、我らのごとく高位と名声を拒み、秘奥を伝えるに己が実子を選ぶほど僣越であることはない。我らの自然変成力は、血統の近親や類縁というだけで相伝しうるものではないのである。血縁というものは、たしかに我らの性向への類似を決定するが、これは秘奥へと参与する権利を附与するものではない。ゆえに汝は、いかなる人物がこの術に参入しうるものか、その生活から性格、精神の適正までを慎重に吟味せねばならず、かくなるうえで我らの変成力が卑俗の輩の知るところとなることのなきよう、聖なる誓約にて縛られねばならぬ。ただ、汝が年老いて弱り始めたときにだけ、これを唯ひとりの者に明かすことができるが、その者もひろく同士に認められた有徳の者でなければならない。この変成力は秘められた科学として永久に保たれねばならないが、我々がかように配慮を強いられる道理は明白である。もし邪な者がこの術の実践を学べば、ことはキリスト教世界にとって重大な危難を孕むことであろう。かような人間はあらゆる節制の限度を踏み越え、キリスト教世界を統治する正統な世継を代々の王位から駆逐することになる。邪悪への罰は、価値なき人物に我らの術を導いた者にも及ぶ。かようなる傲慢なる自惚の暴挙を避けるため、術の知識もつ者はこの秘儀を、突出した有徳の者のみが相伝しうる力であると尊重し、これの伝承にあたっては厳正な判断をせねばならない。この術が、その目指すところのために聖性を否定されるのも尤もなことではあるが、それでも尚この術は核心に秘めた理法のゆえに神聖視されて然るべきである。何人たりとも神の慈悲無くしてはこれに到達しうることはないのだから、卑俗の銅を高純度の銀や金に変えるのも神学的な勤めのなせる作業であり、神聖なものである。このような変成の力を、おのれ自身の思考から導き出しうる者は誰ひとりとしていない。神が組成した様々に異なる物質を、ひとは容易に分離することはできないからである。神自身がその寵愛する者へと、この強力な科学を許し給うたのでなければ、自然の運行を促進しうる者などいないのである。それゆえ、いにしえの賢者らは錬金術をいみじくも聖なる科学と称した。この神の聖なる賜物を軽んじる驕傲は誰にも許されない。留意せねばならぬのは、博く学識を重ねた者たちからも神はこの知識を封じ、真実を忠実に愛し慎ましくいきる下級の者たちにこそ、慈悲もちて示されたということである。数え切れぬ天上の星々のなかに、たった七つの惑星しか存せぬよう、この知識に到達するのは夥多なる衆のなかのかろうじて七人ほどであろう。ひとの人生を鑑みるに、深く博識もつ学徒も、他の探求者たちも、我らの科学を手に入れようと励む者は枚挙に暇がないけれども、しかし彼らの微に入り細に入る労働は、なんらの甲斐もなかったことはよく分かっている。探求へと財産の全てをつぎ込んだにもかかわらず、すべては失敗に終わる。果てしなく的を外しつづけ、ついに彼らは自棄になって探求を諦め、この術が、ひとを苦しめるだけの騙りごとだという辛い結論に達する。その稔り無き探求は、我らの変成力を無駄な絵空事として糾弾し始める。思い込みの激しい輩は、おのれの叡智とどかぬところのものを無価値であるとみなしてしまうようだ。だが我々は、そうした者たちの誹謗中傷にそうひどく拉がれはしない。その実なにひとつ理解せぬまま己の勝手な考えに自惚れる輩は、我らの宴の客人にはなりえないのである。こうした人々には我らの変成力を理解しえないが、それでも尚、術が真実であることに変わりはない。思慮なき空疎な自尊心で高ぶる輩はこの真実を否定してしまうが、けれども事物を明確に認識しない者は信頼に足る意見を述べることはできない、それはあらゆる賢者も同意するところである。絵画について盲目の者の意見に耳を傾けるほど不毛なことはない。更に、かような輩は随分と己の知識の深さに溺れるものでもあるが、彼らが聖ポール大聖堂の塔を建立しえないからといって、聳え立つ塔を根本から破壊できるものか、これはひどく疑わしいものである。のみならず、この世の秘める深奥へと突貫しうるほどの鋭さを彼らに信じるのは到底不可能である。さて、もはや彼らについては何も言うまい。かような者は己自身の無学の悲惨に留まっておればよいのである。さて汝、この叡智を求める者よ、虚偽から真実を見抜くすべを学ぶべし、錬金術の真の探求者は、因果を究むる哲学へとよく精通している必要がある。さもなくば、あらゆる労苦は無に帰することであろう。とはいえ真の探求者たるものは、みずからの責任に於いて探求に着手するものだ。燦然たる我らの石を渇望して求めつつも、探求者は己の被るいかなる損失にも他者を巻き込むものではない。それゆえあらゆる実験は己の負担から執り行われるべきで、作業に不可欠な失費を惜しんではならない。真の探求者は希望の根にただ神の慈悲のみを据え、財産を消費し金庫を空にし苦痛に悶えながらに一歩の前進を得るのである。しかし、この反対に詐欺師らは、擦り切れた外套をまとい街から街を彷徨う。怪しげな知識で不用心な者を惑わそうと罠を仕掛け、虚しい語りに誓いをかけて出し抜くのである。銀を増加させることができるとか、金と銀をかけあわせ繁殖できるなどと虚妄を主張し、強欲な連中に巧みに取り入る。じつに見事な、欺瞞と貪欲の結合である。だが金の繁殖などというものが、信じやすい餌食を騙そうとした大言壮語、虚偽の約束であることなどは長からず露見してしまうことで、強欲者が乞食に成り下がるだけのことである。繁殖という詐欺的な言葉にはやくから警戒しなかった者の陥る結果である。かような人物について長々と行を費やしたが、それというのも、邪悪な性向を秘めた輩が蔓延ることを恐れてのことである。私がこれ以上を書き記すことで善よりも損害がうまれる恐れもあるから、さらにただ一言を加えて思慮の一助となそう。かような詐欺師たちが真実、その熱望するところの知識を手にしているとすれば、それと知られぬよう細心の注意を払うであろうし、自身の知識をひけらかしたり、金銭を狙って信じやすい人々を騙す必要もない。そうした場合、これら詐欺師らが不正の取引を行ったあらゆる場所で、それ相応の報に罰せられるとしても、そこに彼らの姿はほとんどないはずである。かくして、かような輩が主張する金属の繁殖というものは、自然についての偽りの主張であることがよくわかるはずである。汝、金属の繁殖などは自然の法則に反したものであり、決して有り得るものではないと肝に銘じておくべきである。自然というものは、いくつかの経過を除けば、なにものも繁殖などさせない。それは、我らが腐敗(プトレファクション)と呼ぶ腐食作用か、あるいは、被造物へと生命が吹き込む伸張(プロパゲーション)である。金属種の場合、繁殖ということはありえないが、我らの石はそれに似た様相を示すことがある。腐敗とは破壊的な堕落を意味するが、しかし豊かな稔りのためにそれはさる適切な場所で表出しなければならない。金属種は大地のなかで生成されるものであって、地面のうえでは錆び付く物質である。ゆえに地表は、金属が腐食する緩やかな破壊の場所である。この事実からわかるのは、金属種にとって地表は適正な元素の環境ではなく、不自然な場所は自然物へと破壊をもたらすということである。それは、水から出された魚が死んでしまうのと同じことである。人間や獣や鳥もまた、空気のある場所で生きているように、鉱物や石は地下で生成するのが自然なのである。薬剤師や医師も、乾燥した丘に水棲植物を探すことはない。かしこくも神は、万物がそれ自身に適した場所で生育するよう規定したのである。私は、金属種が繁殖すると主張する者がこの原理を否定していることを知っているが、彼らは、一般的に地中に存する銀、鉛、錫、そして鉄の鉱脈が、豊かな場合と貧しい場合があると言う。そして、金属種が繁殖し生長しないのなら、そうした多様性は完全に説明不能ということになると言う。こうしたことが、地中で金属種が生長することを証明するものと思われているが、もしそうだとして、それはなぜ地表ではないのか、さらにその地上の、火や水や空気の影響から守られた容器の中では不可能なのかどうか、この疑問を拭うことはできない。我々は、こうした主張がなにものも証明し得ないとして以下のように答える。状況は二つの場合で異なるが、まず金属にとって唯一の有効的な動因は無機的性質であるが、それは地中であればどこでも見つかるというものではない。さる特定の地域に選ばれた鉱脈が存し、そこに年々、天球が一直線に光線を注ぎ、その地域の金属性物質の配合率によって、種を様々に分けた金属が次第に形成されてゆくのである。大地における限られた地域のみがそうした生成に適しているのである。斯様なものが、いつ、如何にして地表にて増加しえるのであろうか。誰でも平均的な知性のある者であれば、水が凍ることやそれが場所によって多寡のあることくらい知っている。凝固前の水は、小川や溝渠では少ないが、しかし湖や河川はより多量の水脈たりえる。そして多量の水のある場所のほうが沢山の氷を産するものだ。けれども、これを氷の生育だとか繁殖だとかというのは明らかに不合理であって、それは、湖や河川が水路や小川よりもずっと多くの量を蔵しているのである。これと同様に、山脈中に金属種が生長する必然性はなく、さる一定の場所で金属は他の場所よりずっと多量に存在しているだけである。いかなる金属の小片もまた、内在原因の発露から量を増加させることは決して有り得ず、そしてまさにこの点が鉱物種の、植物種や動物種と異なるところである。植物の種は、たとえば殻斗果にみるように、今は未だ眼にそれと識別はできなくとも、自身の内に樹木の幹と葉を実質的には内蔵している。しかし金属種はたとえ硝酸で溶解されても、必ず同じ組成状態のままである。一オンスの銀はそれ以上にも以下にもならない。植物界に属するものであるか、するどい感覚を備えた生物の類でなければ、内面の活性によって繁殖するものは存在しない。金属種は、種子も感覚ももたぬきわめて根源的な物質であるから、我々は金属の繁殖などというものによって詐欺的行為が試みられるようなことは封じられるべきと断じねばならない。たしかに金属は、いったん生成されれば生長ということによって量的に追加されることは決してないのであるが、我々は物質にとって起源を同じくする性質へと尋ね入ることにより、ひとつの金属が、異なる種類の金属へと変えうることを知った。たとえば、鉄は銅へと変質しうるのである。しかし哲学者の医薬なくしては、まことの銀や金を生ずることはできない。かくして全ての真なる賢者たちは、繁殖というまやかしから広まった欺瞞を忌み避けてきた。まことの術、聖なる錬金術にこそあらゆる栄誉と崇敬は払われ、それは純粋なる金と銀を造出する徳目を秘めた、とうとき医薬を追究するものである。カタロニアの都市にはレイモンド・ルルに帰された、この変成に関する一例が存する。これは七つの像で構成されるもので、真実に至る途が仄めかされている。三つの寓意図は銀色に描かれた婦人の像であり、四つは流麗な黄金の衣装を着けた男たちが描かれている。それぞれの衣服の裾にある銘を、ここに記そう。ひとりの婦人の衣には「かつて私は蹄鉄の古い鉄でした」とあり、「しかしいま私は無垢なる銀です」という。さらに別の女性が言うには「私は金属臭のする鉄でしたが、今は純粋かつ固形の金になりました。」三番目が言うには「私はかつて、使い古しの銅のかけらでしたが、今や完全に銀となりました。」四番目の像が言うには「私はかつて、汚らわしきところに醸成されし銅であったが、今や神の命にて完全なる金となった。」五番目の像は「私はかつて純粋無垢なる銀であったが、今やさらに素晴らしき金である」という。第六番目の像は、二〇〇年ものあいだ鉛の導管であったが、いまや完全に偽り無き銀と知られると、高らかに宣言している。第七番目は「驚くべきことが私に起こり、私は鉛から金に変えられた。けれども我が同胞姉妹たちのほうが私よりずっと黄金に近い」といっている。

錬金術の名は、アルキムスという或る王の輝かしい記憶に由来しており、それは寛大かつ高貴な君主であり、斯道を最初に探求した人物であった。昼夜、自然への問いかけをやめることなく、ついに自然より得難き秘密を獲得した。ヘルメス王もまた諸学に通暁した人物であった。その『四書』は四科に分かれた偉大なる自然の学を論ずる。占星学、医学、錬金術、そして自然魔術である。王はこの書の中で、次のように自身を説明している。「事物のあるがままを真に知る者は幸いなる者である。知識に相当するところを正しく証明しうる者は、幸いなる者である。」 

原因の解らぬものに己の理解を信じ込んでは多くの者が欺かれている。それが彼の王の主張するところであった。大抵の場合、妄想の渦のなかには真の知識の片鱗すらも存せぬというのも、いにしえより存する格言である。万物を証明せんとする態度、そして思慮分別によって、学べる者は今もまた情報の蓄積を増しているということもまた事実である。ひとは、知識によって自身と万物を理解する。ひとは、知識なくば獣でありかつ獣にも劣る。知識の不足はひとを獰猛かつ乱暴にし、教練はひとを高貴に穏やかにする。当世、高貴なる者たちは、自然の秘奥を理解しようと望む者をさげすむ振る舞いに及ぶことがあるが、かつては高貴な生まれか、燦然と恵まれているか、さもなくば王侯ですら自由七科を学んではならないことになっていた。知識に傾倒した者はその追究に人生を費やすよう捕らわれてしまうので、ゆえに古代の世から、これら科学は自由七科と呼ばれ、その完全な達人となるを望む者は、この科目のなかに学ぶ自由の精神のなかに自らを歓喜させてきた。原則を探求する学問へと自身を没頭させ、多くの技芸に通ずる円熟した学徒を目指す者には、あらゆる現世の心労からの自由が必要であり、そうした人物には世界の労苦や歓喜に背を向ける、さらに堅固な理由があるのだ。こうしたことは、学べる者が貶まれる根拠を充分に示してはいる。しかし、日々真実の知識を増しつつある者の輝かしい記憶は不滅のものとなりうる。叡智、正義、仁慈を愛する者の受け容れられぬ局面は少なくなかろうが、刻はその者の額を、黄金の冠で飾ることとなろう。さしあたり我々は、己の意志もちて知を愛する者が、無知なる大衆に無視されるよう、期待をかけねばならぬ。たとえ、その多くが稔り少なき学問に自らを捧げることになろうとも、貪欲と科学は相容れぬ伴侶であることに心中耐えねばならない。その好むところが金銭的に過ぎぬものへ駆られる者は、術の秘密などに到達すべくもないが、自身の目的に於いて知識に喜びを見出す者ならば、正しい精神のなかで我らの術の修得へと近付き、そして左様な人物に成功が約束されるのである。この章ではもはやこれ以上述べる必要のあることはない。我々はすでに、妥当な成功の望みをもって聖なる錬金術の修得に専念する者たちの姿を明らかにした。そうした人物たちは敬虔なキリスト教徒であり、簡単には意趣を変えることのない者である、ということを繰り返し言っておこう。野心からも解き放たれ、他者から借用をする必要もなく、忍耐と根気、揺るぎない神への信頼に満ちているのである。かような者たちには、清濁を併せ呑んでも、知識に従う準備が出来ている。その人生には、罪業も欺瞞もない。ただそうした人物のみが、科学に於いて達人となるべき精神的適正をもっている。次なる章では、その愉悦と悲しみについて論じることとしよう。

 
 
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