Tomas Norton ‘Ordinal’ 第5章
両替商であったブリセウスは多くの人々に損失をもたらしたが、その取引を悦びのもととする者たちもあった。当時はこうした出来事を耳にした誰もが不思議さに驚きを禁じ得なかったものであるが、そうした時代からさして時は隔たっていない現代にも、そのような奇跡は起こりうるものである。十日という短い期間、レドンホールに近いある宿屋に、我らが術の達人の三人もが逗留するということがあった。幾千のなかの辛うじて一人のみが輝かしき栄誉を掴みうるのだが、こともあろうにこの三人ともが、白と赤の染色素を有していた。うち一人目はロレーヌ公領出身の者であり、二人目は英国中部の州の出身であった。三人目は最も若く、三州の境界に立つ十字架のそばで生まれた。賢者たちは惑星の「合(コンユンクティオ)」からその誕生と、その者が英国の誇りとなることを予言した。かような三人の達人に出会わずして大陸の隅々までを旅することは誰にもかなうことでは無かろうが、うち二人は今まさに出発しようとしている。けれども三人目の若き達人は、善事を為すために世のこの一点に残るようである。しかし、この達人が今すぐにでも国家に寄与しうる佳事にとっては、英国の主権者たちの罪業の数々が足枷となるのである。この若き達人について達人の年長者は、多難を堪え忍ばねばならぬことを予言していた。それはこの若者に、計り知れぬ恩義を負う者の手によってもたらされることになる。更にそこには、次々に現実のものとなって証明されることも含まれていた。「もっとも確実なことは、悲愴なる嘆きの後にこそ、測り知れぬ喜悦がやってくるということだ。この国の隅々までもが左様になるであろう、もちろん、あらゆる仁者のみが享受する喜悦である。」それがいつのことなのかを問う若者に、老賢者はこう答えた。神の国、光の国において夜に昼に、十字架が栄誉を与えられるときにこそ、と。そうしたことは、来るべき刻に実現するのであるが、嘆くべき人間の邪悪によって遅れてしまうのである。だが神聖なる刻が満ちればこの術は王へと明かされ、王が当世の風俗を改新し、かつあらゆる悪習を払拭した暁には今ここで数え挙げうる以上の光輝が到来する。彼は秘密裏にこの学問を探求し、それは隠者や僧侶によって伝授されるであろう。カリド王は、モリエヌスに出会うまでこの学問を識る多くの者を探しつづけ、モリエヌスは王の要請に応えてこれを高潔なる人徳で導いたのであった。だが今はこれ以上この題目を語るのは止めにして、作業の精妙なる領域について述べよう。これを解す学徒こそが学問の深きにまで至る者であり、錬金術を究めんとする者ならば元素の哲学を知らねばならぬ。
さて、斯術の探求に余念なき汝に語ろう。変成に向けて物質が調合されたならば、それを四元素に分離し、分割せねばならない。もしこれが能わぬのであれば、汝はこの点について比類のない論考をものしたホルトゥラヌスの著述にあたるがよい。たとえば、ワインが如何にして元素に分離されるかといったことがこの書のなかで述べられている。さらに、汝は万物を組成する「熱・冷・湿・乾」の四資質のありようについても学ばねばならぬ。我らが学問においては、耐火性の色素を手中に収めることが不可欠であり、これを造出するあたって色素というものが如何にして在るかを汝は知らねばならない。我らの術の過程にはあらゆる色彩が繰り広げられ、そして最後に白い色が現れる。さらに汝は、己の物質をロウやゴムのように、容易に溶解しなければならず、賢者らの言葉に拠れば、さもなくば汝の物質は金属に入り込んでこれを貫くことができないのである。物質は、凝固しつつもなおかつ流動的であるべきで、夥しい色彩を秘めている。練達の学徒であればここで説かれていることに気付いているであろうが、我らの術の偉大な秘法とは、三つの相反するものをひとつの物質に融合させることなのである。まず前述した四つの基礎的資質について可能な限り簡潔に述べると、「熱・冷」は能動資質であり、他方「湿・乾」は受動的な資質であって、石が石灰に、あるいは水が氷に変わるときにそうであるように、後者はいつでも前者を受容する。精錬には「熱・冷」が欠くべからざる資質であるといえば、ことは容易に首肯されよう。とはいえ、受動的な資質にも或る力が存しており、これはパンを焼いたりビールを醸造したりといった日常的な現象にもみられることである。そうしたことは「湿・乾」の働きがもたらしている。アリストテレスは、その自然学や他の多くの著述のなかで、実験から試行から知識がもたらされることを記している。すなわち、実験は思弁の根の源、あらゆる学問の源ということになる。万物の性質はそれらの作用を観察することから認識されるのだ。たとえば医師らは、体温の過剰や欠乏を尿の色から判断することがある。我々もまた、四つの基本的な資質を手だてとして、ありうべき序列における色素の系統を学ぶことができる。しかし、白色について物的な確信を得るためには、極度に純化された物質が必要であるので、汝が己のなすべきところを行っているかどうかは、偏に日々あらわれる色彩を一連の知識に照らし合わせつつ察するしかない。というのも、色素というものは、あらゆる物質においての、直接に認識しえない極限なのであり、澄んだ物質がいとも美しく完成されるのはそこなのである。乾いた物質に「乾」が支配的であれば、その色はいともあざやかに白化する。焼かれた骨や石からつくられた生石灰が白色を現していることは、汝の眼にも疑いようのない事実であろう。また、澄んで湿った物質が冷気に満たされていれば、その結果も白色となろうし、それは氷すなわち水が凍結して硬化する場合にみられることである。我らの哲学が明かさずとも、因果はそのように結ばれているものではあるが、しかしここで私が語ろうというのは一般的な自然の学ではない。こうした事実を提示しているのは、ただに錬金術師の探るべき理を例証するためにすぎない。子がその母を見て学ぶがごとく、或るひとつの事実は他の説明となる。
湿った重厚な物質へと「熱」が働けば、結果として黒色が現出する。この原理の事例は、ただ緑の樹木を火にくべるだけで得られる。乾いて重厚な物質に「冷」が影響しても黒が現れる。重厚さは、軽やかさの不明瞭および欠如の因であり、色の非存在は黒である。つまり「冷」の影響下にある、引き締まって濃密な物質は、生命の危機に瀕している。ゆえにこそ、澄み切った物質が白き物質であることも、万物の事実として受け容れ得るわけである。このように、動因はいつでも同じわけではなく「熱」のときもあれば「冷」である場合もある。そして誰もが知っているように、黒さと白さは色の二つの極限であるから、汝の作業が白をもってしてこれを完全化の終局とするのであれば、それは黒とともに始まらねばならない。赤は、賢者らの言うように黒と白の中間に位置する色であるから、汝は錬金術において赤が最終的な色であるという私の言辞を信じて構わない。さらに賢者らは、桃色や橙色が白と赤の中間色であり、そして緑と灰色が赤と黒の中間色であることを指摘している。きわめて純粋な物質には肌色があらわれる。医師は、尿の色に白から黒まで十九種もの中間色を発見しており、これらの色のなかに白っぽい縞瑪瑙石のようなものがあるが、マグネシアにはこの色の気味がある。もっとも、我らの術の或る段階におけるマグネシアの発色はこれよりもずっと純粋かつ穏やかに壮麗である。そしてここに我々は、人間の眼に見ることの出来るあらゆる色を観察することになる。その千もの色は確として尿の色なぞには及びもつかぬものである。これらの色すべてが現れる連続的な段階のなかから、我らの石は見出される。実践的な実験を執行するにあたっては、汝はみずから予定した作業の各局面に立ち現れる色彩に従って、段階的な局面を経なければならない。この術の様々の段階について知識に不足があれば、レイモンドの『錬金術概要』にあたるがよい。
一方でギルバート・カイマーは空想的な書物をものしており、それには十七の段階が記述されているが、斯術には十七では不充分である。医薬を深く学ぼうとも、それは必ずしもこの学問の真の秘奥に到することを意味しないのである。もともと人体に備わっている力が医者の術なしに病を克服させる場合を除けば、疾患の進行を遅らせたり、医者の対処なしにはもはやどうにもならなかったりといった多くの場合に、医者の処方は賞賛されるものである。しかし、ことは我らの鉱物の医薬に関しては異なる。我らの術は万物の発生をはるかに超えてうちたてられ、ただ術者の叡智にのみ依り、いかなる賢者であっても経験なくこれに到達することはない。錬金術のこのような大前提は、作業にふまえられるべき段階や、そして「熱・冷・湿・乾」のありうべき調整のうちに、そして、固さ柔らかさ重さ軽さ、粗さと滑らかさ、などといった万物の相違を生成するものを俯瞰する智識のなかに存している。——さらに重量、数量、尺度という、形姿を調和させる基本的なありさまに従うのである。この三つの範疇のもと、我々は神のつくり賜うた万物を分類する。神は必然的な調和としての数量、重量、尺度にしたがって万物を創造され、順列整序をなし賜うた。ゆえに、これらの調和から逸脱してしまうと、自然の調和は破壊されることとなる。これについてアナクサゴラスは賢き戒めを遺しており、あらゆるの元素を内在させるべき物質についての、精密な重量の割合をあきらかにするまでは、我らの元素の結合を行うべきではないと言っている。ベーコンもまた、誰しもが口を噤んできたことを鑑みれば、先人達が封じてきたのは他ならぬこれら調和についてであり、ことがこの配合に及ぶと主張はひどく矛盾して学徒を当惑させると言っている。汝、これらの調和について真実を知らんと欲するならば、アルベルトゥス、レイモンド、ベーコン、そして大アナクサゴラスの四人が記したところから知識を学ぶがよく、努々ただひとつの説に拠らぬようにすべきである。四つの資質を、ひとつの結合力ある統一体へと結合する奥義を解しても、さらに元素の結合という、乗り越えねばならぬより困難な課題が残っている。「地」と「水」の、さらには「火」と「風」の、適正な合一が遂げられねばならない。「火」と「水」は他のふたつ以上に高貴な元素であるが、それでも「地」と「風」を軽視してはならない。「地」はもっとも御しやすい元素であり、またこの上なく不可欠であって、潜在的に生長の可能性と生成の力を秘めている。これが、我らの石にとっての「地」のリサージである。これが無ければ生成はありえず、固定化もない。「地」の元素なくして定着するものはないのである。これ以外の元素は揮発するが、それは日常の経験に「火」と「水」とそして「風」の真実として充分あらわされている。「火」は拡張の因であり物質を混合しやすくし、透明で壮麗かつ美しい色彩は「風」の影響を通じて作られる。「風」が凝縮すればロウやバターやゴムのような、容易に溶ける物質が形成され、こうしたものは僅かな熱にも液化する。「水」は清められて浄化し病に苦しむものも解き放つ。「火」には倍増の力があるが、過大評価するものではなく、「地」に内在している倍増力に比べればかなり劣ったものである。ひとつの「火」のほのめきは、ただ可燃性のものを与えられて奇跡的に大きくなれるだけであるが、「地」は日々に新鮮なハーブをも産する。このように、倍増しうる元素は「火」と「地」だけであり、それらは我らの石に内在する倍増の力の因となる。「地」について大アルベルトゥスは詳述しており、あらゆる鉱物物質の中でもっとも我らの白きエリクシルに適しているのはリサルジリウムであると記している。さて、ここからは元素の結合についての吟味に移るが、この問題については以下の規範を策定することができる。まず(1)言語文法的な結合をせよ。元素それ自体の有するしかるべき規則に則るべし。その規則こそが、学徒の作業を補助するであろう文法法則の中枢である。たとえば「地」にとって対をなす極は固着性と揮発性なのである。こうした元素の秩序を学ぶ際には、文法学者などは英国のも仏国のも役に立たつことはなく、ただ本書『叙階定式書』だけが、これをどこに学ぶべきなのかを示すことができる。それは『樹木(アルボア)』と呼ばれる書物である。(2)また、修辞学者の流儀に従って結合をなすべし。汝の染色素(ティンクトゥラ)は汚れなく純粋であるがゆえに、清められて華麗なる精髄、無垢なる「地」「水」「火」そして「風」を用いよ。(3)論理学的な方法に従い、自然のまことの合一にかなうものとして結合させよ。この規範を失念しては、多くの学べる者ですらその労苦の結実をすっかり失ってしまう。そして(4)算術的にそれらを結合さすべし。精緻な自然の調和に従え。これを識る者は少なく、僅かにボエティウスのみが「元素を数量によりて互いに結びつけよ」と記すのみである。(5)汝の元素を結びつけるに、音楽的たるべし。これには二つの理由がある。まず、旋律はそれ自体に適した協和音に基づいている。音楽的共鳴がつくりだす調和という、音楽から得られる法則に則って元素を接合するべきである。我らが術の概括的な解釈からいえば、こうした音楽的調和は錬金術のまことの調和とひじょうに似通っており、そのような精妙きわまる調和はレイモンドやベーコンの書物からも学ぶことができる。ベーコンは三つの書簡のなかで暗示的に、また、レイモンドは概略的な論説のなかでより完全な詳説を記しているが、多くの者がこの言葉をあやまって解釈し欺瞞に陥っている。(6)占星学の手法に従って、元素を合一させよ。ありうべき刻の流れのなか、発達の適正な展開のなかに、単一で荒く未定形の物質が星辰の影響下に鼓吹され、完全化へと導かれる。ゆえに占星術のあらゆる仕事で、これに益せぬものはないのである。(7)遠近法(光学)の科学もまた、我らの高貴なる学問にいそしむ者たちへと多くの助けを提供する。我らの学問は、他の多くの科学によって著しく前進させることができ、たとえば(8)充溢と真空を扱う科学も又そのひとつである。しかし、我らの学問はあらゆる技芸の女王として尊ばねばならない。あるいはまた(9)自然魔術の学問もこの配下に属する。さて、かように学識深くも四元素が結合し、事物の互いがそれ自身の適正なありようで整ったならば、我々は完全化に至るまでの煮沸の様々な段階のなかに、次々に連続して変化する色彩を目前にすることであろう。これは物質が自然の暖気にあおられて滾り沸くからである。この熱は、眼にも見えず感じられず、触れることもできないのであるが、我らの物質の内部にそれが存していることは、知性によって判別されるのである。この作用を知る者は殆どいない。外部からの人為的な熱の影響によってかきたてられたこの内奥の自然熱が、活発に喚起された性質を働かせ、物質が堪え忍ぶことになる様々な変化を生み出す。これが賢者らの説いてきた、作業過程に立ち現れる夥しい色彩の因である。このような、外側の熱と内側のそれの違いを混同してしまい、斯術の学問には過失が繰り返されてきた。如何にしてこれら二種の熱が互いを補完し刺激し合うのか、そして我らの作業で二つのうちのどちらが支配力を有するのかという問題は、生物の創造過程との類似、そしてそれ以上に、特に人間の体内におこっている消化ということとの類似から、これを学びとる必要がある。「我らの石の生成は、人間創世との類似をみせる」というのはモリエヌスの至言であり、また、レイモンドはこの過程に四気質の四段階がすべて揃っていると記した。このように、人間が創造される過程と、我らの石のそれが酷似しているために、この世にはただ人間と我らの石のふたつの小宇宙しかないとまで言われてきた。
さて、元素の結合あるいはその同化吸収については既に述べた。ここからは、我らが石の栄養摂取について説明を加えることにしよう。すみずみまでよく混合され、「乾」の働きで引き締まった均質の気質(ユーモア)、その理想的な混合のなかには、内部と外部の熱によって受動の資質がつくりあげられる。人間の消化もまた、実体としての気質体液がめざしている完全化に他ならない。かような言辞は、未だ学ばざる者にとっては解しがたいであろうし、また有益とは思われぬ叙述かも知れないが、汝はこれを許容せねばならない。他のあらゆる技術と学問に似て、錬金の術にもこれにかなった術語があり、これを閑却すると難を生じかねない。外的な「冷」によって消化が加速されることがあるが、これは体温がより高い夏よりも冬に多くの食糧が摂取されることにみられる。「冷」は内的な熱をかりたて、その活動を増し、欠くべからざる消化の力を附与するのである。我らの術の消化力という質は、消化組織に存する擬似的な熱のことである。とはいえ、被消化物のほうの暖気もまた消化を補助する。苛烈な熱はなにものをも消化しはしない。風呂は、消化の助けにもなるが破壊の原因にもなる。発酵したワインは葡萄よりも自然の熱をもっている。「凝結」ということには実体が有るわけでなく、これはただ幾つかの原料物質がゆうする受動的な仕儀である。汝は、色彩出現のときを求めるのみならず、「熱」「冷」「湿」「乾」のいずれもが物質の「第一動因」たりうることを学ばねばならぬ。眼前に生起するいかなる段階においても、「第一動因」が要求するのは、色彩の出現する様態への素早い観察を可能にする、修練を積んだ達人の見識である。四資質に対し「第一動因」は支配的な力をもっており、その一時的な優勢が、四資質を、それ自身の性質のなかへと同化吸収するのである。アナクサゴラスも『自然変成』と題する書物のなかでこの変化について述べており、その理論的解釈はレイモンドも賛同するところである。けれども「第一動因」を認識するのは、思いのほか単純な問題ではないので、私はここで色、味、匂い、そして変化のしやすさという四つの徴からそれを認識する手段を提示しよう。汝の容器のなかで何が優勢の状況であるかは、さしあたるところ「第一動因」の資質によって生起する色によって一時的に示されるので、汝が物質にみる色彩は「第一動因」を認識するよすがとなるだろう。もちろん「第一動因」がいかなる過大な作用を起こそうとも、この性質に気付いてさえいれば、汝はこれを和らげることができる。さて、その性質について漸く汝に語る段になった。我らの術の過程に於いて現れる、さまざまな色彩の出で立ち現れる原因を汝に説こう。およそあらゆる物体の白さは透明度の結実である。黒さは、物体の密度が構成素を厚くして透明度を遮蔽する際にあらわれる。これは「地」の物質が燃焼されたときに傾向を強めるのであるが、とくに熱が構成素(アトム)のかなりの固さを引き起こすときである。このような密度と暗度と、そして、曇なき清浄さをば混合させ、我々はあらゆる媒介色を実現するのである。いずれも澄んだ透明な物体は「風」と「水」の物質から発生し、これは透明度を損なうことのない浄化された「地」に凝固するものである。そのような透明な澄んだ物体にいかなる特別な色の気味をも見出さなければ、それは結集された「冷」の結実であると確信してかまわない。これは、たとえば水晶や緑柱石(ベリル)などの組成物のようにそれと識別されるものである。水晶は気体状の水であって、澄み、透明かつ清らかである。しかし水性の元素が優勢なところでは暗度が増してより不明瞭となり、緑柱石(ベリル)や氷のごときものになる。物質が本質的に「乾」であればそれは密集して堅くそして不明瞭であり、金剛石(ダイヤモンド)や同類の自然物がそれである。澄んだ物質に光があたると、マグネシアにみられるような煌きが生じる。こうした物体を組成するに預かって力あるのは、熱がつくりだす水蒸気である。このようなことが透明度という色の極をつくりだしているのである。中間色についていえば、たとえば紅玉(ルビー)は、澄んだ物体に存する精妙な煙霧に起因する物体であり、そこに光と輝きが満ちているのである。その輝きの多寡は光の量による。こうした光彩に於いて紅玉(ルビー)に次ぐのは紫水晶(アメジスト)であるが、暗度は増して透明度は減少する。玉随(カルセドニ)もまた光輝ある物質だがこれは緑柱石(ベリル)に次ぐ。緑、あるいは翠玉(エメラルド)の色は、清浄なる「水」から形成され、熱せられた「地」の物質と混合し、「地」の透明度がつよいほど、翠玉(エメラルド)の輝く緑色はより顕著になる。黄色は「水」と「地」から発生し、黒い蒸気の暗度による「風」の明瞭度を持ち合わせている。灰色、あるいは鉛の色は「水」あるいは「地」の元素の組み合わせの結果であり、そこでは構成素(アトム)が冷たく密集して、とりわけ古い鉛にみられるように明暗度がつよい。これは人間でいえば、死の一歩手前の状態でもあり「蒼白の」と形容され、嫉妬ぶかい気質にも見受けられる。これは自然色のみならず心臓の血液をも凝縮させ、暖気と血液が失われているために表層から「冷」と「乾」を駆逐する。そのように、発熱が極度の点に至ったときにも、指の爪は「蒼白の」色を示す。瑠璃(サファイア)の色は東洋的な青であり、天空の蒼穹のようである。これを眺めるに鉛の色よりも清らかであるが、それは灰色よりも「風」「水」そして光を内包しているからである。他の淡青色の気味よりも瑠璃(サファイア)の色は価値たかく尊ばれているが、それは「地」が多く「風」が少ない暗度の故である。天藍石(ラズライト)の色から銀を転成するのは容易であるが、これは銀の透明性が「風」からつくられて空色に似た趣になるためである。含有される水銀のゆたかさは銀の光沢となるが、水銀の優美というものは精妙なる「地」と清浄なる「水」そして澄み渡る「風」に因る。橙色(オレンジ)は、金にみられる黄色の気味であり、多くの者を魅了する心地好い色であるが、これは活発かつ強力な吸収作用に由来し、その水性の元素が高度の熱にさらされて蜂蜜や尿や胆汁や灰汁にみられる色を発生させる。金の黄色は、純粋かつ精妙な「水」のあざやかな凝縮の結実であって、「水」の純度が高いほど黄色の輝きは増す。鏡は「湿」の凝固に由来するため滑らかであるが、これはなんらの影響も受けぬ「風」が無制限に活躍するからであり、この透明度は「水」に因っている。美しい橙色は、純粋な白と赤をよく混合させて出来上がる。以上のように、消化吸収の段階に応じて、元素の結合にあらわれる多様な色彩が、我らの物質に現れる。適した元素の色をよく観じることで、色のなんたるかはよりよく判断されるであろう。
薬草の根は外側に冷たく内側に暖かであると医師らは言うが、この例証は香しい菫草(ヴァイオレット)を観察すれば明らかである。薔薇が内部に「冷」、外部に「赤」であるというのは一般的な自然学にもいわれる通りである。アナクサゴラスはその『自然変成』のなかで「あらゆる事物は外部と内部に互いに対立する性質を示す」と述べている。この法則には真実が秘められているけれども、構成素が非常に平明で単純な薬草、たとえばスカモニアや月桂樹(ローレル)は別であって、それは野菜のようには育成しない。留意せよ、いかなる混合物に於いても、あるひとつの元素が支配権を求めて孜々としている。こうした傲慢、貪欲な傾向は、人間にも他の多くのことにも見受けられるものだが、しかしあらゆる人間の身分も立場も死という平等原理をまぬかれることはない。これが、人の世に高級な法を布く神の手段であり、あらゆる野心も欲望もが虚無なることを示すものである。すなわち、王であれ物乞であれ墓に入ればおなじことなのである。めざすべき平等の規範から逸脱している際には、このような仕儀にて「第一動因」を扱わねばならない。アリストテレスは、かような本義について「汝の石の構成は完全なる均等なるべし、無益な争いは避けられねばならぬ」と記している。我々の列挙したあらゆる色彩を、各々の適正な序列に従って現出させよ、自然がみずから望むままの生成過程をもたらすべし、かくして、この甚だしく多彩な色彩のなかに、汝が探し求める色にちかい唯一のものが優勢となってゆく。これが、色というものを己の指標に役立てるということである。色については更に語るべきことがある。しかし、遙かなる色彩の変化のなかで、どのようにして「第一動因」をそれと認めるかという、汝の目的にかなう記述はこれまでに充分なされ、私の義務は充分に果たされた。もちろん、かように構成要素も少なく単純でありながら、永久不変の白さに到達する最終段階までに我らの石がみせるこれほどの色彩の変化については、学識ある者であっても不思議に思う向きは少なくなかろう。だがこの神秘は僅か数行に説明できることである。これらの色彩はマグネシアの資質に因っており、その性質は、水晶が元に置かれた物質のあらゆる色を映し出すごときもので、いかなる形姿や配合にも変成することができるのである。それ故「ただひとつのものの奇跡を起こして神は、ただひとつのものからあらゆる驚異が産まれいずるよう定めた」というヘルメスの言辞はまさに至言なのである。こうしたわけで、通俗の自然学者にはこの有徳の石を見出すに至ることができなかった。石は彼らの理解を超越していたのである。
また、匂いの感覚も、支配的な元素を認識するにあたっての指標を汝に与えるであろう。匂いは色が与える指標とともに、元素の結合における「第一動因」の探求を示唆する。白と黒のふたつが色の極致であるように、悪臭と香気は匂いの極限である。けれども、眼に閉じるべき瞼をもたぬ魚が中間色を認識できぬように、我々人間の嗅覚もまた、匂いの微細な変化を鋭敏に捉えることはできない。魚の眼とおなじように、我々の鼻孔は閉じることが出来ないからである。このように、中間の匂いは眼で中間色が認識されるほど明確には鼻孔から認識できない。賢者らの意見では、中間の匂いに忌避すべき悪臭は無いものの、ただ一種のみ若干の悪臭をしめすものがあるということである。賢者らの書物には、経験から結論される注意が促されているが、私自身はこれについて経験に即した知識を持っていない。しかし、甘く香しい匂いを浸透性の強い悪臭の風味のひとつと混合させれば、香しい香りがたちこめ、悪臭の方はほとんど消え去るということである。先人たちがこれを強く主張するのは、何であれ香しい匂いは悪臭より純粋で霊性たかく、そのために容易く「風」を貫き、生命あるものを悦ばせて自然に調和し、悪臭よりはずっとたやすく受け容れられるものであるということである。匂いというものは、滲出作用に似て、熱に溶解された蒸気的煙霧であり、ゆうゆうと「風」に入り込んで汝の嗅覚を刺激する。これは汝の口が食物に、あるいは音に聴覚が、色に視覚が、影響されるのと同じである。匂いについての完全な理解には、四つのことが要求される。まず、精妙なる物質が熱の作用によって影響され、それ自身の蒸気的な類似物を放つからこそ、その蒸発は薄く澄んだ「風」を通じて散じ、嗅覚に働きかけるのである。しかし、こうした匂いのある蒸気を、我らの石のような緻密で堅い物質はたやすく放つことはなく、それは「熱」によっても容易には影響されない。「熱」は匂いを活性化させ、「冷」はそれらを妨げる。肥料は冬よりも夏のほうがにおう。竜涎香、甘松香、没薬(ミルラ)など、とりわけ女性の好むような心地好い香は、汚れのない揮発性の物質から発生する。こうした純粋な物質を穏やかな熱気にあてて影響させると、菫の芳香ようなほどよい匂いが発せられる。しかし、同じ穏やかな熱気でもこれを不浄の物質にあてれば、アロエや硫黄のような不快なにおいが発生する。物質の自然熱が減じると、最も酷い悪臭が発生し、それは腐敗した魚のごときものである。自然熱の損壊によって発生する悪臭は、生命の瀕死に由来する煙霧である。物質そのものが壊死していなくともただ体液が腐敗すれば、前述した場合ほどではないにしても、悪臭は極端にひどいものとなる。腐敗臭は、物質それ自体の腐敗によってのみ引き起こされる。邪悪な物質が分解されるときには、それは恐るべきにおいを発する。腐敗しつつある人間の骸は悪疫を引き起こすこともあるほどである。石炭の燃えかすのにおいは健康を害するものであり、流産という悲劇の原因にもなる。物質の資質が汝の性質と調和しているものであれば、匂いは悦ばしいものであるはずである。けれども、汝の性質に共鳴しない種類の物質からのにおいの影響は人間にとって受け容れ難いのである。魚はよいかおりを好むが、これは古い餌よりも新鮮なものへと、より容易に魅き寄せられることからもよくわかる。なんでも良い香りを放つものは、自然熱に類似した程度のものである。樟脳(カンファ)、薔薇などの「冷」の物質もよい香を発するが、先人たちは、純粋な物質が自然熱と同義であり実質的にはそれ自体を意味する、とも記し遺している。かくして汝にも、ある悦ばしき香が他を無に帰することはない、という古い言い伝えが真実であることを首肯されるであろう。しかしながら、悪臭の場合はこれと異なるのである。大蒜は汚物の臭いを拉ぐ。いまや我々は、当面の目的として匂いについて充分に語り、かくして腐敗の始まる時期を、汝は容易に見抜くことができよう。匂いの感覚は、精妙な物質と荒い物質の識別をも可能にする。汝は、自然熱の腐敗をみせる中間物質の知識に加え、腐敗した体液と、腐敗した物質のあいだの違いについての知識も持つようになる。我々の物質は高度に清められたものだが、卑しき価値によって保たれてもいるのだ。ゆえに汝は、それが自身に特有の性質から腐敗しても、そこから悪臭が発すると期待してはならない。
汝の第一動因を認識しうる第三の徴への試みは味であるが、味見された物質は減少してしまう。味覚による確認は眼や耳によるそれよりも正確ではあるが、我らの石の性質は浸透性にあるので、これを味見すれば生命と健康が破壊される。これを度々繰り返すことは危険である。周知の通り我らの石は金属を強化するものであって、火の試練に耐え、完全な赤色が現出するまでは、人間には有害である。斯術の追究に献身した或る使用人は、痛みと病からすっかり救われることを期待して白き石の小さな欠片を口に含んだが、突如として麻痺に斃れてしまった。我が師匠はこの者に素早く胃石(ベゾアール)を処方し、ことなきを得た。我らが術に造出されるものの進行状態を判定するに、味見をしてみることは確かな結果をもたらすが、我らが物質の味見は恐ろしくも有害なものであるために、少なからず危険な試みでもある。にもかかわらず、作業の確実な進行を確認しようと我が師匠は、全くの危険もなしに、未だ結合していない部位を味見したものであった。熟練した術師にとって、すべて感知すべきことは色彩や匂いから判断できるのであろう。質のよいワインもこのように判定されるが、とくに新酒を試みるに最適なのが味見である。匂いの感覚はただひとつの器官からなり揮発性の蒸気を識別するが、他方、味覚はいわずもがなの六つの器官から成り、これによって物質の状態を認識する。これらは生命体の自己防衛のために自然が定めたものである。猿は食べ物が安全かどうかを嗅覚で確かめ、ひとも鸚鵡も味覚の判定に頼っている。大概のものは匂いで判断されるが、味見した際に酸味や苦み、あまり濃厚な甘みがあれば吐き出される。そうしたものは毒性や腐食性があったり、あるいは熟し過ぎである。このような場合に味覚の決定にたよるのは得策ではない。いにしえの著者たちは九種類の味を区別した。辛味、油味、微妙な物質を暗示する酢味、刺激味、塩味、中間物質の特徴である水気、苦味、酸味、かなり密度のある物質に固有のものとしての甘味である。全体的に一般的なものではあるが、油味、辛味、塩味、苦味、甘味の五つは熱の産物である。酢味、酸味、水気あるいは無味、刺激味の四つは冷気を因とする。味は、物質的あるいは質的な相違によっても決まる。往々にして濃密な物質は甘い味をしている。湿気を含み、濃厚で暖かい物質には油味がある。熱く、乾いた中間性質の物質は塩味があるか、刺激味が特徴である。熱く乾いた濃厚な物質は強く苦い。また繊細で熱く乾いている物質は刺激の強い香辛の風味をもっている。このように熱は、五種類の味の因となるがそれを超えることはない。第二に、冷たく乾いた精妙なる物質は酸味を示す。熟さぬ林檎を口にした人物があらわす顔つきにこれを見ることが出来る。これと同質、同程度の媒介物質が薔薇のように口に痛烈な効果をもたらすことは、汝にも容易に想像できよう。しかし酸、弱酸、僅かな酸味は、これとは異なった程度の冷たさと乾きに由来する。冷たさと湿気の最も弱い程度にはかならず水気の気味があり、これは卵白や牡蠣にみられるとおりである。これらの物質は冷たくそして潤沢な湿気からなっており、こうしたものに人間は味覚をほとんど感じないので、イサクは七種の味しか存在しないと言っている。酸味には様々な程度があるが結局は同じものであり、同じ味である。水気や無味というものは単に味の不在に過ぎないからである。さらに我々は、甘苦さなどといった複雑な味覚をも感知する。以上のように、味覚によって人間は物質、資質、程度を識別することができる。しかし汝が、我らの物質を味覚によって試みることを望まぬのであれば、汝はこれとは別の兆候によっても導かれうる。我々は医者とおなじように、ただ尿から示される徴にのみ依存するわけではなく、脈の状態や全体的な肉体の具合から判断を下す。疾患の正確なありようについての知識に役立つものすべてを自ら拾い集めることなしに治療法を確立させようとする者は、じつに無学な医者ということになろう。汝、我らが術の学問を追究するならば、正確な判断を構築するために四つの観察方法から提供される兆候をのがしてはならない。このうちの三つについては既に語った。四番目は、液体の流動性についてである。液体は我らの物質のつよさであり、作業が進行しているあかしは液体の状態に最も著しくあらわれる。諸元素は液体によって結合し、溶解もする。雄性と雌性を互いに結合し、死せるものに命を蘇らせるのも液体である。洗浄されて清められた液体は、我らの石の主要な滋養分となり、これ以上によき糧はありえない。生命ある人間の身体のあらゆる部位に栄養を供給しているのも液体であるが、これは錬金術に於いても同じ機能をもたらすのである。こうした液体の純度や分量、その濃淡について、汝は慎重に究めねばならず、さもなければ汝の進捗は小さなものとなるだろう。二重の調合を要する我らのエリキサは、他のいかなる物質にもまして自然の驚異をあらわすものである。医師たちは、濃度がたかくより健全な尿ほど湿気が多いといっているけれども、我らにとって濃密さは乾きの、反対に精妙さは湿気の徴である。我らの石は浩々たる液体を要する。アリステウスは『群衆』と題された書物の中で「風は隠れて水に包まれをり、風のちからによりて地を引き揚げる」と述べている。ピュタゴラスはそのような物質の状態を、最も幸先の良い環境であると評している。ゆえにプラトンが液体を「おだやかなる露滴」と呼んだのは至言である。そしてその言葉は徹頭徹尾、錬金術にあてはまる。古代哲学の陳腐な言葉では、凝集した風は雨になり、希薄な水は風へともどると言われるが、五月は風が水に凝集する一年の始まりであるともいわれる。蠍の宮に太陽がある期間には、そうした水が空から下降するという者もあれば、冷気に影響された液体は決して使われるべきではないという意見もあり、いにしえの著者たちは、こうした液体の効果は冷気によって束縛されると考える。また、エリキサの調合にあたって使用すべき液体は乳汁であると主張する賢者もある。あるいは「ただリサージ液を除いては、いかなる液体も偉大なる作業には充分ではない。それはアゾクの水とともに、処女の乳をつくりだす」という謎めいた言辞を説く者もある。デモクリトスは、我らの石の調合にとっての最良の液体は永遠の水であり、火の影響に抗し熱に耐え得る性質がある、と主張している。ルペシサは、死せるものに命を復活させるために、霊性たかく蘇生を可能にする活ける水が必要であるという。この精髄についてアリストテレスは『秘密の書』のなかで、あらゆる完全化は第五の過程にあると記している。さらにルペシサは、この活ける水をあらゆる液体のなかで最良のものとしているが、それは濃密鈍重な物質を霊的なものにするからである。ピュタゴラスの著書のなかにも、我らの活ける水について別の言辞が与えられているのをみることができる。ピュタゴラスはこれを復活の原理と呼び、固着したものを揮発したり揮発したものを固定したりすると述べている。これは凝固した物質も容易に溶かす強力な方法となりうる。さらに、あらゆる液体で最良のものは、つよい欲念と情愛をかきたてるとも言われており、この液体は島々の周辺で波に洗われている。さらに別の液体を語る賢者らもあり、それは春の水よりも冷たく、氷のような感触であるという。だがその量は、我らの石の調合に継続的に働きかけようとも決して減ずることなく消費されることがない。デモクリトスはこの水を「影なき光」あるいは「暁の水」と記している。ヘルメスは、このように卓越した重要性をもつ液体は、天然水銀の水を措いて他にはないとしている。曰く「この水は適正なる錬金術の水として最も重要なものを秘めている。」このように、斯術の学問を追究する者として汝は、我らが石を完全化させるあらゆる液体について識らねばならない。液体というものはうつろう物質であり、捉えがたく不安定な性質のものである。すべてかような液体というものは、堅固な構造物よりもなお月の影響下にあるものである。これは白き染色素(ティンクトゥラ)の調合にあたって、秘伝を伝授されたすべての術師が証を見据えるところである。液体は、両極の物質であれ中間性の物質であれ洗浄し、浄化することができる。あらゆる不純なるものを濯ぐ者に役立つよう、神は液体を造りたもうた。隠された不純物を物体の表面にあらわす力が液体にあることは、疑いなきことである。このありふれた作業で汚れた衣服を洗濯するひとを観れば明らかだ。液体は、干上がった草木の根に生気を回復させる。あらゆる自然の液体には、すべての失われた生命の根源を復元させる力があるのである。さらに液体は、資質を分割分離して物質をより小さな部位に溶解させるのにも利用されるし、逆に、数多をひとつに結ぶことによって我らの石の生成を促しもする。かくして、運動や流動性が補助されるものは少なくない。さて、汝はこのような液体が「地」にあらわれる異のものより得られる仕儀を見極めねばならない。テレピン油の精髄のように亀裂からあらわれるものもあれば、オリーブや葡萄の果汁のように粉砕から得られるものもある。水は蒸溜抽出され、コロホニウムは燃焼から得られる。女たちは分離によって洗剤をつくるが、さらに色々な他の方法からも液体は得られる。尿、血液、乳汁、汗のごときものは自然の過程にのっとって生じ、凝固させる物質はチーズを造るのに役立っている。これやあれやの方法で我々は、そのために日々神の名を祝福するところ、すなわち輝かしきエリキサ、いとも尊き哲学の石の調合に資するであろう液体を探し求める。
程度の差こそあれ、これまで列挙したどの液体もが粘着性の性質をもっている。しかしいずれも水銀にのみあるちからに由来する結果であって、これには流動性があるものの、さる精妙なる物質を兄弟姉妹の類としてみいださなければ、決して他のものと同化することはない。他のあらゆる液体とも混ざり合わないとはいえ、乳汁が乳清やバターやチーズを含むようにして、これらは四大元素よりなりたっている。これら四元素が分離され、そして再び統合されゆく過程は汝の実験の重大な局面であるが、チーズやバターや乳清を得る方法は、我らの石のうちに存する液体を得るそれに比すれば簡単な問題であろう。ただ水を除いて、それらのひとつとして混合体でなく単純なものなど無い。汝は我らの石を構成する液体の数種について性質と程度を理解せねばならないが、この作用因それ自体が永久不変のものであれば、第一動因の様々な余剰のなせるところを確認することは可能である。もし支配的な性質が「乾」であれば、汝は必要に応じて多くも少なくも「湿」を加えて潤わせこれを正すことができる。他の性質についても同じように、汝の意志が施く方向へと第一動因を強いて従わせることで、作業を進行させることができる。多様性、相反性、性質の折合のつきかたに関する知識があれば、いかなる性質が優勢となるべきかもわかるのである。このように、あらゆる構成要素がひとしく休ろうている汝の液体を追加し、また減少させるにあたり、汝は偉大な叡智を要することになる。けれども「熱」と「湿」の性質については、これを同程度に含有するものが存するなどと考えてはならない。これらふたつの性質実体が維持しうることを主張する者もあるが、それは必ずや詐欺的な言辞であって、かような主張をなす哲学の引用辞は真実ではありえない。この認識は改めねばならず、新しい概念が据えられねばならない。これらふたつの性質が同程度に表出しうると説くすべての著者らは過誤を犯しているか、あるいは単に探求者たちがこれらの元素を調和させる秘奥の術に至るの妨げる目的でそうしているはずである。それゆえ凝縮術を知らぬ者には我らの術を完遂することはかなわぬのであるが、それは神がそれぞれの事物にそれ自身の適した分限を均分したもうたからである。定められた時間としての小節を測定しなければ、正しく歌唱することは誰にもできない。時間の割り当てにあやまつ者は、音楽の技術におけるもっとも基本的な要素を損じている。自然に対して不正を働くのはこのような誤ちを犯す者なのである。汝の媒介物質が清らかであればあるほど、そこに現れる完全化もまた卓越したものとなることを熟考せよ。媒質は、価値として最も重要な部分、我らが術に有力な精髄にまで達するものである。両極の性質に参与する中間物質の助けがなければ、我らの物質の調合の漸次過程において固形物は流動物にもなりえず、液体が固まることもない。これは三重の霊気の営為であるが、魂がひとの肉体に結びつくのも同様の仕儀である。三つの霊気とは生命の霊、自然の霊、動物的霊であり、その住まうところはそれぞれ以下の通りである。生命の霊は心臓に住居を定め、いにしえの著者らによれば自然の霊は河川に住み、また動物的霊は脳に留まる。これら三つの霊気が人間の身体の健康状態を良好に保っている限りは、魂は不一致にもがくことなく身体に住まい、生命は維持される。しかし、これらの霊気が人間のうちに留まれなくなると、魂もまた肉体を捨て去らざるを得なくなる。繊細かつ純粋な不滅の魂は、霊気が媒介として働くことなしには、粗野なる肉体には決して住まうことはできないのである。我らの作業においても、我々は肉体と魂と霊を区別せねばならない。そして我らの媒介物質は、ともどもの性質に介入することで肉体と魂をつなぐ霊気なのである。極のものをむすぶためには、媒介物質を除いて他のいかなる手段も自然にはありえず、こうした媒介物質は他の事物とは種を異にするものである。これらすべてのこと以上に、汝は相互の元素の循環についても識らねばならないが、それは七惑星の数に合致する、他ならぬ神授のめぐみのものとして識られる。ある名智識の賢者らは、諸元素の循環は九の数であると記している。おそらく我々にとっては、この教唆に従うのが安全であると思われるが、懐疑の余地のあるところを超えて高められた主張をなしている昨今の哲学者らによる最新の研究では、内ふたつが不要とされている。火から風、風から水、水から地へと順を追って進行し、このように最も高きものより低きものへと下方移動をすれば、あらゆる過誤の危険を回避できると考える識者もいるが、そういう者たちは自らの主張を支えようとして風が火の食糧であるなどと疑わしいことを例証する。しかし、我を信じよ、この種の循環はあくまで調整のための方便に過ぎず、それは錬成するというよりも分離と中和をめざすものである。そして火の好む食餌とは、火に適した養分としての燃料であるから、それは風でなく地である。火も地も「乾」のものであって「熱」は「乾」に存在を負っている。その反対に風の性質はずっと「湿」である。もちろん、火は風なしに活動できぬこともまた事実である。神の手は諸元素を相互依存の紐帯で互いに結合し、それは人間のいかなる考案や仕掛けによっても分裂させられることはない。管楽器を観察すれば判ることだが、風の上昇の後にしばしば水の沈殿が観察され、その発現はただ元素の性質が相互に包含されているという推測からのみ説明されることである。しかし我らの循環は諸元素の中で最も高尚な火によって始まり、そして諸元素の中で最も火から隔たった水で終わるのである。別の循環が風ではじまり地で終わる。地から火へ、そして純粋な水へ、そして再び火へ、そしてこの後に地を経て、ついに再び火へと一巡りしてくる。こうした循環によって紅き染色素(ティンクトゥラ)は完成されるのである。他の循環は白き染色素(ティンクトゥラ)の造出に適している。このように、いずれ循環には、そうさせることの容易さ困難さに応じて適した時節がある。ある惑星の運行がきわだって鈍重であれば、賢者らがおこなう循環も三十週という期間がかかるのである。その反面でいくつかの惑星は他よりも軽快である。徒や疎かなる作業が進められてしまうと、我らの作業はそこからさらに二六週間を要することになる。その事実を無視することで多くの者は欺かれ、賢者たちの手慣れた作業の局面で作業を諦めてきた。万物にはそれ自身の刻、それ自身に適した秩序があることを知らなかったがゆえに、経験不足な学徒たちは斯術が自然と同様に四〇日間で完成されるものと見積もった。けれども巨大で鈍重な生物である象には二年にも渡る長い妊娠期間があり、さらに五〇歳にもならねば子供を産めるようにならない。アナクサゴラスはその『考察』の中で、金属は一千年もの刻をかけて生成するので、そうした刻の周期に比すれば、我らの作業などはたった一日にも過ぎないと記している。ゆえにこそ汝は「水」のうえに「地」が昇るのを観るときには、きわめて慎重に作業を行わねばならないのである。我らが足下にあるべき「地」たるものは「水」を支えるものであるがゆえ、我らの術に於いても、穏やかな水の迸りがしげく促進させられねばならない。かくして質を同じくするものがしなやかに流れ出すであろう。強すぎる奔流は確実に危険である。さらに錬金術の学徒は七つの水の効果にも留意せねばならないが、これについては他の書物からも教示を見いだすべきところのものである。我らの術が統べる体系のすべてをこの小さな論考に期待してはならない。
これらの水を使うことで、四大元素の効験を見いだし、あらゆる金属の不完全さを癒すことができると考える者もいる。このような水は欠くべからざるすべての質料をふくみ、堅い金属をやわらかくするのみならず、柔らかすぎるものを硬化したり、精錬したり、あるいは可鍛の状態に変えたりできると確信されているのである。いずれの物体にしてもそれへと到達するには、このような水についての知識が必要不可欠というべきである。さもなくば我らの石は適正な滋養を得ることができない。いにしえの著者たちは、我らの石を小宇宙(ミクロコスム)と呼んだが、疑いなくその構成は我々の住んでいる世界とのきわだった類似をみせており、諸元素、熱、冷、湿、乾、そして堅さ柔らかさ、軽さ重さ、粗さ滑らかさ、固着も揮発も流動性もをがそこに含まれているのである。そのように多種多様の構成要素を秘めているにもかかわらず、それは多くの事物ではなく、唯ひとつのものなのである。金属変成はただ色彩の変化のみならず物質の実質からの変成を意味する。変化する物質の元素がこれから変わりゆく物質の元素となり、それ自身の性質が刻み込められるのである。変成されたすべての部位は元素に於いて釣り合って刻み込められ、うすく元素化された事物がひとつの物質とひとつの価値を、永久的に所有するのである。我らの石もまた、子供が産まれてすぐ授乳されて泣くように、調合されたそのときときに、他の物質へと色素を分与するありあまる力を有している。さらに子供は三年も経つと歩いたり話したりするが、一定の時間経過の後我らの石も、よりつよい着色の力を身につけ、その輝かしい性質を自身の大きさの千倍もの物質へと浸透させる。これが事実であることは私自身証言することができるが、よく清められた金属がみごとな銀や金に変成されるのを私は何度も目前にしてきた。我らの石は果てしない刻の流れの中で量的に成長し続け、そして質的により優秀になり続けるものである。それは人間の誕生と成長に驚くべき一致を提示している。しかしながら私は、いくらかの読者にとっては最悪の現実をここに述べておかねばならない。汝、その石の調合に成功すればより良く賢くこれを用いよ。さもなくば汝はあらゆる骨折りを一挙に失うことになり、それは汝が被ってきたあらゆる莫大な出費から得られるはずであったその報いの一切の喪失を意味するであろう。
汝の石を増大させるためは、それをいちはやくふたつにひとしく分割せねばならない。分割の均しさが正確になるよう秤を使って慎重に吟味せよ。一方は紅き染色素のために、他方の半身は白き染色素に使用する。それが汝の労働の稔りの刈り入れどきである。けれども、汝の染色素が無限の増大を可能にするものであることがわかれば、ここでそれを止める助言は私にはできかねよう。アロンの姉ミリアムが「人生は短くそして知識は永い」と言ったのは正しかったが、我らの染色素はそれがいったん卓越した最高度の完全化に至れば、老化をも遅らせる凄まじきちからを有することになる。我らが賢者の幾人かは、小さな障害と大きな利益のもとに、到達したかもしれぬ究極の目標を前にしたとき、我らの石のさらなる成長を愚かしくもとどめたのであった。この無気力ともいえる不注意は、ただかれらが石の価値のすべてには気づいていなかったという烏滸がましさによってのみ説明されうる。私には、その幸運な持ち主へと、かれらの持っているもののすべてについて指摘してやらねばならぬことが判っている。私がこの世界を去った後にもこの論考は真実の証左として残り続けるが、自身の誓願を偏重せずにそうする限り、私は斯術の秘密を開陳するのをためらいはしない。すでに私は、白き染色素を如何にして調合するかについて充分明らかにしてきた。だが、こうしたことのすべてを私に明かした師匠は、こう言ったものである。数多の学徒たちは疲れをしらぬ精励刻苦の果てに、あたかも最高位の賢者たちから知識を引き出したかのごとくして、この、我らの白き石と染色素を、自主的に、みいだしてきたのだ。それでもなお、我らの紅き染色素を手にする者は十五の王国にも稀なる者なのである、と。そう言いながらかれは断固たる視線を私に据え、その言葉が私の表情を悲しく曇らせるのを見てとった。私はこれに答えて「嗚呼、私に何ができましょうか。あらゆる地上的な富をとおく超え、私は知を愛します。紅き染色素はいとも高貴なる物質といわれ、それは生命を引き延ばす力をも有します。私はこれを、全世界の黄金のすべてよりも栄誉ある獲得であると考えます。」師は、私がまだほんの若者であり、そして若さはゆきすぎた尊大さに陥りがちであると答えた。未熟な二八歳の若者が、後に賢者たちの籍に入ろうなどということを予期できたであろうか。この奥義が我が内にひろがることを想像して、私はずっと成熟した人間になったようである。「嗚呼、良き師よ。私の経た年月はすくなく身体はまだ若いけれども、貴方に真実のあかしを懇願します、私の精神がすでに円熟のみのりに至っていることは貴方にも判っているでしょう。」師はそのときもはや何も言わなかったが、私にはそれが、賢者たちの流儀に倣って私の素質をこころみる試練の過程であることがわかっていた。その内容はあまりにくだくだしくここに記すには配慮を欠くものである。ついに神の慈悲のもと、師匠は私がその愛と尊厳の比類なき証明となりうることを認め、紅き染色素の調合にかんする真実の秘奥をわけあたえたのであった。しかし紅き染色素の調合法というものは、白き染色素の調合を完遂せねば、これを求めれどあてなく迷う探索となるであろう。これら医薬のどちらもが同じ容器、同じ物質から構成され、その調合方法も全く変わらない。容器の素材と形状、そして化学的処置の程度が変えられねばならないのは、物質の生命力が一旦死滅したあとである。だが、しかしこの輝かしきことについて語るとき、私の鼓動は激しくなり、わななく手をとどめることができない。「火とアゾトは充足している」というヘルメスの言辞は真実である。ヘルメスやアリストテレスの注釈者たちは、その著書に添えた論考のなかで、いとも驚くべき主張をなしており、アルベルトゥス・マグヌスやフランシスコ修道士ベーコンらが、紅き石を増大術によって倍加させる方法について識らなかったというのである。私の師匠が示した明白な論証を鑑みれば、この著述者たちはおのれの記したところをよく承知している。前述したとおり、私は化学の資材と道具の一切を盗まれたことで悄然とし、実際には紅き染色素の調合には至らなかったが、私はその調合の方法について他者に説明するくらいには完全な理解がある。門弟たちへと偉大なる奥義を勇もて説いた者たちによれば「この麗しき石の紅は、その白さの中に隠されており、おだやかに煽り立てる炎の熱によって、魅惑された術者のまなざしのなかへともたらされ姿を現す」のであり、パンドフィルスは『群衆』のなかで「白き染色素は、紅のかりそめなりて影姿なり」と我々に語っている。さらにミリアムもまた、紅さは白さのなかに封じられおる、と言明している。ヘルメスに帰される、燦然たる至聖所、と題された驚くべき書物には、紅き染色素について「雪のごとき妻女、その紅き伴侶と添ひて伏す」と記されている。これはいわば、紅い夫の娶った雪のように白い美しい女を、汝は白き染色素の中に得るということである。もし汝の白き石が熱に晒され、すなわち火の活動を通じて、血のように紅くなれば、婚姻は確かであり完全である。これは交接の行為と同じであり、それが実を結ぶのは男性種が優勢を得て女性種を自身の性質へと吸収するときである。胎児の性質を観察した者の経験的な判断が、これが真実であることを示している。我らの石が完全なものとなるのは、こうした局面に於いてのことである。満足するまで己の毒によって育まれると記す賢者らもあるが、これが成し遂げられたとき汝はそれまでのあらゆる支出の対価を得て、すべてを思うがままにすることであろう。さて、作業の難解な局面、そのあらゆる周辺事項についてまでもが詳細に説かれた。私はこれ以上を暴くつもりはない、またそれを望みもせぬし、し得ぬであろう。