わたしはただ神より鼓吹され術の奥義に至った。神がこのしもべに真の道理を明言することを許されたのは裁定と識別のためであって、こうした力の賦与は決して人間にとって機会の多いものではなく、かといって神からの許しを意味するものでもない。勿論わたしが最後の審判のその日を恐れぬのであれば、わたしは斯道の一部なりとも決して開陳したり、たれ彼に公表することもなかろうが、わたしは敬虔なる人々にとって信仰の錨となるべく奉仕しようという意志を持つに至った。それが神が、わたしへと与えたものである。誠をかたる信ずべき書物を持たぬ者はみずからの内なる原理を悟ることなく、賢者の術よりいとも遠く隔たっている。しかし専ら、他のなにものでもなくおのれ自身の因果を識る者には術の原理に到る路は残されている。そしてたとえ材料を識る者であっても完全に術を会得するにはまだ多くのことが残されている。完全なる錬金薬の調合にあたっては、われらが石がふたつの素体の賦質から抽出されるということが不可欠であって、それゆえいみじくも斯く云わる。嗚呼、黒海にむすぶ水、諸元素を融解せしめる苦さ。嗚呼、いとも偉大なる造物主よ、自然の性をひめたる被造物は卑俗の性をこえて、光とともにきたり光につつまれて生まる、そは万物の母、そのもたらす雲の何と黒きことか。


緑獅子と色素の何たるかの章


まず、われらの緑獅子のうちには色素のなんたるかの核心があり、それはアドロプあるいはアゾケ、クロパム、デュネクなどと呼ばれる。汝、この過程を深く理解したいのであれば以下の隅々までをよく読むがよい、さすればわれわれの時代に為された奇跡をもまのあたりにするであろう。わたし自身が奇跡を目にせず触れもしなかったのなら以下のように詳らかに描出し得なかったはずであるが、かといって斯術に要する様相と事物のすべてを開陳したわけではない。それには人界で語られるに相応しからざることどもがいくらか含まれるからであるが、そうした内容は隅々まで挿画のなかに描かれてある。しかし作業の全てを明かし、究極へのよりどころとなるようなものは一つも無く、そういうことは神や、敬虔なる先達の助けなくして識ることはできないのである。これは彼方を望む遠き道程であるから、忍耐と期成が不可欠である。われらの術に関わる者には論外の愚物も少なくなく、卑俗の黄金から飲用金を作ることができると吹聴しては、これがあらゆる疾患を癒すなどと信じて疑わない。あるいは医者にすら、水で金貨を煮るなどしたものを健康に最適であると公言したりする者があるが、これはむしろ罪深く有害なものでとても飲めるしろものではない。可飲金というものは贖罪叶って澄みわたり、尊厳を遵守するものであり、斯くあってこそ健康に資するものなのである。卑俗の黄金も他の金属も治療には役立たず、前述したように人体には有害で飲んではいけない。しかし、調合物を買うためにそれらを医師らに支払うのであれば、わたしはそれが最良であることに同意しよう。あるいは、黄金を見せることは大きな慰めとなるから、金貨一杯の盥とか純金を病人に見せるのは効果的なことかもしれない。しかし賢者のまことの可飲金は完全なる万能薬(エリキシル)である。そしてこの可飲金は眼には見えねども効験あらたかな偉大なる医薬であり、あらゆる余分過多を身体からも金属からも除去することができる。ゆえにあらゆる金属の不完全さを堕落や脆弱さから変成し、人間の肉体にも斯くはたらく。留意せよ、これが最もたしかなことであり、あらゆる賢者の目的である。これを卑俗の黄金と解す者は盲目のなかの盲目であり欺く者である。たとえ卑俗の黄金が他の物にこうした完全性を与えるとしても、それ自体は不完全なままに留まることになる。最初に読んだただ一冊の書物からのみこの科学を断ずるべきではない。汝来たれ。真実は誤りなしに現れず、術に於いては間違よりもなお心の悲嘆こそが変成の材になる、と賢者らも云う。それゆえ斯様に偉大なる実践にあたって、叡智を励起させ疑い萎れることのなきよう、わたしは自身の生涯を惜しまない。なにものからも眼をそらすことなく万物を凝視する神に祈る。あまねく世のすべてによりて輝ける誉れの至らむことを。かくあれかし。




その出自至純なる者の言う「来たれ、最愛なる者よ、われら交々に抱擁し合い、両の親にも似ぬあたらしき有様を生み出そうぞ」かしらも紅く戴冠され黒々たる瞳そして脚しろき王は奥義そのものである。未だ孕まぬ母の「みよ、妾(わらは)の来たるを。妾こそは世にふたつとあらざる有様をば孕むに適ひし者なり」と。かくして汝、彼者がふたつの山に産まるという真実を知るのである。汝がいま手にしている書物は汝の知っているであろう様々な書物に通底するヘルメス・トリツメギストスの言説に従うものであるが、彼はその立脚する理論的基盤についてはその名を明かすことはない。彼の残した句はあますところなくすべてこの書物の中で踏襲されるので、確とそれに従うべきである。それよりも確かな先達は有り得ず、この術について語る如何なる書物もこれに違うところは無い。彼は他のいかなる者よりも平明に語ったので、神が慈悲を与え賜うなら、これを読む者は身をもって解すことであろう。其者にあらゆる栄誉と光栄を。かくあれかし。


第二章 いかにして物体が哲学の活ける銀へそして水へと溶解されるか。


石の素材になるのは鈍重な水剤であり、あるいはそれは水を凍らせるほど冷たい。そうした石というものは他のいかなる場合よりも動物的(肉体ある)なところに生じるものが貴重であると考えるべきである。われらの鉱脈に産する緑で液状のデュネクなしに、いかなる類の石も調合することはできない。われらの石を求めて右へ左への連山を眺めてはあちらこちらと登り、あらゆる種類の霊気(スピリット)やら香気(アロマ)やらの神秘を擁する山に分け入る者もおり、これは確かに斯術に必要な石が見出される鉱脈を検分するに似てはいるが、石はそれ自体増殖する活きたものである。そしてそれは平地でも山地でも水中でも何処にも求められ、貧しきところにも肥沃なところにも無きところはない。いとも卑しきものでありながらやんごとなきものでもあり、血や肉を有して生長する。嗚呼それ識ることの何と尊きことかな。嗚呼万物を生じさす豊かなる緑色の神聖。嗚呼聖なる自然、汝の作業に神の慈悲あれ。なんとなれば汝は不完全よりはじめ完全と成すゆえ。汝この自然をば純粋、清浄、天然、明晰、ありうべき純然、それよりほかなにものにも変じてはならぬ。それを除きては何等の利益ももたらさない。


四元素の性質を探求しに往かむ。其のアンプティスーインペリクティスーアンシティスは大地の臓腑より生まれ出ずるもの。


ここに哲学の溶液は成り、それが我らの活ける水銀をつくる。


第三章 いかにして肉体が水へと溶解しそれが新しき肉体となるか。


われらの石は罪を負って静謐に胎動する物質であるがゆえ、異物を受け容れない。これはただ従順かつ妖艶なる妹とのみ結合し、其等の間に術は始まる。識るべし、しろき女があかき男と結ばるれば程なくして其等は抱擁しあい互いに繋がれ、みずから溶解し、みずから造り出し、ふたつはひとつをつくりだす。其処には三つの完全なる色彩が存し、其処からあらゆる他が起源をとる。まず黒つぎに白そして赤。他にも多くの色彩が存するが、殆どは白化の前に消え去ってしまうから留意すべきほどではない。かくしてわれらの術に不可欠なふたつの肉体の混合体は造成され、われらの石の中に二者による唯一の物体が現出すれば、それはいまや是が非でも自身の強烈な意志により染色素(ティンクトゥラ)にならんとする。故にこれら二体を結合させるは欠くべからざることであって、二者が結合して石の造成に取り込まれれば、石は風の胎(はら)に宿る、それこそが哲学者たちに伝わったことである。風は彼者を胎内に宿す。風が《気》であることは明らかで《気》は生命、生命は魂であり、それは油であり水ともいうことができる。妾は、遍く世界に最も高貴なる者なりて、ひとりの父祖のもと四の面貌を持ち、ひとつは山脈に、他は《気》中に、更に《石》のなかに、更に洞窟あるいはうつろな場所に存する。


石は四大元素の混成によりて造成さる。


われらが《活ける水銀》に完全に溶解した物質が此処に現出し、それは水を、眼の涙のごとき白色へと永久に凝固させる。


第四章 ここに生起する哲学の腐敗、それと見えねど硫黄と呼ばる。


諸元素の特質を変換させよ、さすれば汝望むところを見出さむ。われらの術に於いて性質を転ずることはすなわち物質を霊気へと化すことにひとしい。初めにわれわれは油状の水塊をつくりだすことで、下なるものを上なるものになさしめるが、それは物質は溶解して霊気の性質となるからで、そうしてそれらは、水と混ざり合う水のごとく、決して離ればなれに分かたれることはなくなるのである。まったくもって物質操作のすべては、われらの要するすべてを恒久に内に秘めたる水を得るに掛かっている。ゆえに、良き作業の礎たる水をこそまず採るべきであり、其れは白を白にし赤を赤にし、じしん肉と魂を持つものである。溶媒あるいは石灰、四元素、こうしたものに支配力をふるうものは、その性質にそぐわぬ要素からは成立するはずもない。


哲学者の腐敗は、眼もあやに輝ける鴉の頭なり。


ここに存するは腐敗状態の物体。そは黒き土塊より成る。汝、その混成物質が黒化するを観察せしとき、其処に始まる作業の開始をば悦ぶがよい。かかりしこと腐敗に欠くべからざることなり。


第五章 此水のほとんどは、黒くけがれたる土塊より成る。


それゆえ鶏が卵を育むような緩やかな火にてわれらの黄銅を暖めよ、やがてこの組成物質より染色素(ティンクトゥラ)が抽出されるが、そのすべてを一時に抽き出そうとしてはならない。日々に少しずつ、そして完全に抽出されるには長い時間をかけなければならない。わたしは白の黒、白の赤、赤の黄、そしてわたしは、嘘いつわりなく真実を語る者である。して汝、術に於けるこの赤は、夜闇と昼光のなか翼なしに飛翔する鴉なるを識れ。その咽喉の激甚さによってこの色彩は表れており、肉体から赤、その背後には純なる水が現れる。神のこの賜物をそれと理解し、受け取ってはそれを愚かな者どもから隠すべし。それはもはや、鉱物の洞窟から隠されてはいないのである。そして石は鉱物でも動物でもあり、輝く色彩であり、あるいは高い丘陵、広漠たる海である。わたしが汝に示すところを注視せよ。真実それははじめ黒く、われらはそれを科学の洞窟とも呼び、それは闇なしには探求し得ないが、それこそわれらが探し求める染色素(ティンクトゥラ)であり、如何なる物体にも色素をあたえるものである。そういうものが彼の真鍮のなかに、人間の魂のごとくに秘められている。それ故わが息子よ、汝、作業のさなかに黒き色素を手に入れんことをこそまず探求すべし。汝、腐敗という正道にみずからが在り、われらの術には遅々たるところへの忍耐が不可欠であることを確信するであろう。嗚呼、祝福されし自然、そして汝の作業の祝福されてあれ。汝はまことの腐敗、不完全なるところより完全なるものを造出する。それこそは黒あるいは夜闇なのである。かくして汝あたらしき異形の造成をば成し遂げれば、鮮緑あるいは碧獅子は異種の色彩をあらわすであろう。


《鴉の頭》はかがやく黒さ。これは物質の上の黒雲であり、霊気あるいは形相であり、この物質の上の土壌は別の容器の基底まで下降し、そこに蠕虫が生じる。


あらゆる哲学者の語りし黒くそして汚穢なる土壌、水の上に現る。


第六章 如何にしてこの黒き土塊の、まず水の上に現れそして漸次、深みへと滲むか。


物質が濃厚な蝋状へと固まり、泥状に沈殿してゆく様が観察されるにつけ、水のうえにあった濃度は少しずつその粘度を失うが、それはあたかも地が水に溺れるのをみるようである。そして容器の底に沈み込み、その黄ばんだ黒色も汚らわしく、それをこそ完全なる腐敗と呼ぶのである。哲学者らの常套に倣い、炉に火を点し物質の全体を水へと溶解させよ、そして全体が黒き土塊に変わるまで緩やかな火で統御せよ。この過程は二一日間で成し遂げられる。識るべし、こうした奥義は完全なる神感いがいのなにものでもない。術のすべての秘奥は唯一絶対であり、われらはそれを、哲学者らの言説によって証明する。われわれは、偉大なる作業に従事しつつ見そして触れ、この唯一絶対を白へ赤へと完全化してゆくことを知り、腐敗が物質の真の変成と、完全な組成をなしとげゆくところに、破壊が黒をもたらすことの他、ついになにものをも見出さなかった。それ故、汝みずからもまた作業にいそしみ、水のうえの黒き色彩より染色素が抽出されるまで、全身全霊をかけて煎出をつづけるべし。そして汝、前述の水のなかに黒色の現るを見しときには、物質の隅々までもが溶解を喫しているを知るべきである。また其処には緩やかな火をあて続けるのがふさわしく、斯くすることでそれは黒い雲を孕み、其処より腐敗が始まる。


《鴉の頭 (カプト・コルウィ)》


《鴉の頭》は黒く不潔なる地であり、其処にしょうじた蠕虫は互いに喰い合い、ある腐敗は他の生成となる。


第七章 如何にこの土塊が水、ふたたび色油と溶解されるか。それは哲学者らの油と呼ばれる。


ここでは、石が黒化するにどのくらいの時間を要するか、また黒化が現れたときの誠の石の溶剤たりえるものは何なのか、ということが眼目であるが、それが腐敗のありようでありまた石の溶解である。黒化が消え去り完全に拭い去られればそれは石の腐敗が完了した徴であるが、さもなくば件の石のなかに黒雲うずまく状況は四〇日つづき、あるいはそれ以上、場合によってはそれより短く、医薬の種と量によって差が生じてくるが、そうした状況はまだ必要とされているのである。また分量の次第によって時間を要するか否かは術者の叡智しだいである。術者の叡智は黒化からの分離の術に作用する。この腐敗過程が一定の長い期間に続くことと、地が浄化されることは、欠くべからざることなのであり、それは四〇日より長くあるいは短く、土と水の分量によるとわたしは伝授する。


鴉の頭


哲学者の油

これはわれらの新しき黒児の誕生、そして彼の名は《エリクサ》とさるべきなり。黒き地と汚穢は、かつてそうであった《活ける水銀》へと変わり、色油へと溶けゆき、かくして其れは哲学者らの油と呼ばる。


第八章 暗黒の中に生まれた龍が《水銀》で養われ自らを殺しまた溺れ、水が白味を帯びゆくさまについて。


金は溶解してその原初の物質へと還元されるが、それはまことに硫黄と《活ける水銀》に相違ない。だから物質をそうしたものに変換せしめれば、われわれは最良の金と銀を作り出すこともできよう。故に、まことの《硫黄》と《活ける水銀》になるまで物質は洗浄されねばならず、哲学者らの言説によれば、それらはあらゆる金属種の根源的な構成要素なのである。故に、妻と婚姻を結びこれに子を孕ませ、再びさる発生に苦渋を嘗め胎動し、光の中で清められて生まれ、その光彩を暗闇から分離する者は至上の尊厳となろう。故に、われらは戴冠せし王を赤き児と結合させ、穏やかな火によって互いを結びつける。かれらのなかには嫡子が生じきたり、その頭上の雲霞はその誕生にともなって再び彼の肉体のなかへと吸収される。故に、すべてが霊妙なる水に溶けるまで、ほどよき沐浴を続けよ。さすればすべての染色素は黒の色彩のなかから出で来る。それが溶解過程が完了した兆候である。


くらき家は哲学者の硫黄。


ここに始まるは自身の羽翼を喰らいての、龍の白き蝋への変転。


第九章 暗黒より十全に浄化され、乳汁の色のこす水なり。闇のなかにはとりどりの色彩が現れる。


己の羽翼を喰らっては、時期に応じて様々な仕儀に次々と異なる色彩を見せる龍は色から色を変転し遂に白色に至る。いとも荒々しく獰猛なる獣は、渇き飢えている際に決して満たされることはない。汝識れ、三日の欠乏状態の後にようやく龍は生まれるのであり、その住処は真の死そして闇という暗黒と暗闇である。その暗き海を飛び渡り、そして龍は巣穴を塞ぐ《嫡子》の眩き光から飛び立ち、かくしてわれらの死せる様相は去る。王は◯より来たり婚姻を享受する。隠されしものは現れ、処女の乳は白化され、胎動せしわれらの児はいまや汝の炎にも染色素にも打ち克ち、これを馴致する。


暗き家。哲学者の硫黄。


此処にて龍は黒化よりすっかり清まり、乳汁のごとくに白くなる。


第十章 容器中の水の上、黒雲が如何にしてその由来する物質へと溶解するか。


黒を見出すべし。黒よりもくろく、多種多様の色彩がその中より現れるであろう。処女の乳は白くなり、そしていま蘇るわれらの《嫡子》は火の征服者となり、染色素にも勝り、《海》より霧雲は立ち昇り地に雨を降らせ、重く濃密で密なる物質はすべて自身の核へと収斂される。万物を秘めたる真鍮より昇華されし《活ける水銀》は澄める水でありかつ真の染色素であり、それは汝の真鍮を払拭する。それは唯、真鍮を白化せしめ得る白き硫黄であり、霊気が飛び去らぬよう繋ぎ止めるものである。容器の頚はいまだ鴉の頭であることに留意せよ、其れは汝の命を容易に奪うであろう。そしてそこからこそ鳩が生じるのであり、後にこれが不死鳥となる。これら僅かなる言辞とともに、全き学を白へ赤へと至らしむる者よ、さいわいなれ。


灰の灰。


黒き雲がその生じ来たる物質へとふたたび降り、そこに地と水の結合が為され、灰を生じる。鴉は黒く、鳩は白く、不死鳥はみずからを焼き尽くして灰中より蘇る。


第一一章 灰はかがやく大理石のごとき白へとかわり、それが白化のエリクサ、灰よりつくられる。


物質の資性は熱が与えられなければ変化することがない。よって汝、能く熱を御し水と火を汝の意に適うようにせよ、かくして物質は濯がれ、浄化され養われ、暗闇が拭い去られる。鉄石のごとく堅固なる地にも気中に存する水は浸透する。故にこの作業のすべてを四度くりかえすべし、さすれば遂に気化◯焼の方法にしたがって物質は焼成され、かくして汝は《石》の《地》を充分に統治しうるのである。物質の◯焼とは乾燥させ灰となすことに他ならない。それゆえ恐れることなく充分に混合してある物質を燃焼し灰に帰せしめよ。こうした灰を避けることなく、むしろ揮発して失った水分を与えよ、数日のうちに水がすべて飲み干され地へと回帰すれば完了である。湿質が乾化するときには世に存するすべての色彩が容器中にあらわれるであろう。ゆえに数日の間、前述のことが遂げられるまで穏やかな火に容器をあてよ。火によりてすべてが結合するに至り、彼から去ったものは再び彼へと回帰して、再び二度と彼から去ることはない。物質から分離されたのは黒さであり、それをこそ物質、そのきたるところに還元せしめ、一体のものとなせ。


白き薔薇。


余は白化さすエリクサ、万物の不完全なるをいとも純なる銀にかえ、そは鉱物にも勝る。その一欠片は千もの《活ける水銀》をば比類なき純度の銀へと変える。


第一二章 白さはルビーのごとき鮮やかなる赤に変えられ、これが赤化のエリクサである。


白きラトナを用いよ。汝が念挫かれることのなきよう、書物をば引き裂くべし。われらの術はたやすきものであり、かつ裨益なるものまことに少なきなり。余を白くする者は赤くもし得る、なんとなれば白と赤は由来おなじくして白に在るものは赤にも在る。それ故に理に適った仕儀にしたがい、白をしつらえてよりさる期限を過ごし其の終局に至れば汝は報われ、かくのごときが突如として現出すると、心胆寒からしめる畏怖のもとに賞賛さるべき驚異が目の当たりとなるであろう。汝の作業がいかに遅々として倦むものになろうとも、注ぎ磨り潰し反復せよ、それは長き煎出によってこそ成し遂げられるものである。識れ。石の花は《石》の石でありそれを数日間、大理石のような輝きが放たれるまで炙るべし、それが達成されれば、これこそ最も偉大なる秘奥なのである。石は石へと混合される、かくして親愛なる友たる汝は白化を識るに至った。

さて赤について言及すべきときがきた。だが汝まず白をば設えおらねば、其処にまことの赤は現れず、第一より第二を経ることなしに第三には誰も達し得ないのであり、其れは汝に於いても同様であり、黒より白を経ることなしに黄には至り得ない。というのも黄色は多くの白の混合体に少量の黒が加わることより成るものだからである。故に黒より白を成し、白より赤を成せ。一年は四部分より構成されるがゆえ、幸いなるわれらの術もまた同様である。第一の冬は冷たく湿り、第二の春は熱く湿り、隆盛極まる。第三の夏時は熱く渇き赤い。第四の秋は冷たく渇いた収穫のときである。かようなる配列は稔りの歓喜をもたらすべく自然の統治する色彩である。いまや冬は過ぎ聚雨は去った。春の刻を迎えてわれらの地には花があらわれた。われらは白き薔薇に着手し、それはあらゆる不完全で、病んだ物質をまことの銀へと変えた。

故に汝、物質の全体が白化するを確と見届けたなら、その白さの深奥には赤が秘されている。故に汝はすべての白を抽出し、全体が完全に赤化するまで煎じ詰めるべきなのである。


赤き薔薇。


余は赤化のエリクサ、あらゆる不完全の物質をいとも至純なる黄金へと変成し、そは鉱物の金にも勝る。その一欠片が投じられれば、千もの《活ける水銀》は一目瞭然に赤く凝結し、そして比類なくも純なる金へと変成される。


 

いとも貴き神よりの賜物              The Donum Dei 15c-

『いとも貴き神よりの賜物(プレティオシシマム・ドナム・デイ)』は重要な初期錬金術文学であり、後の文書に大きく影響する12枚の図解が付属する。ヨーロッパ各地への広い普及、各国語への翻訳にしたがって、60種以上の原本が存在するが、最古のものは15世紀に遡ることができるという。作者はゲオルギウス・アンラック・ド・アルジェンティナ(アンラックとのみ呼ばれることもある)に帰せられ1475年の作とされる。ラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語の各版が存在し、英国図書館ハーリィ稿本6453番に唯一の英語版がある。以下の翻訳文にはミュリウス『黄金の解剖術 AnatomiaAuri』からの版画を掲載する。

 
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