ちいさきしるべ


 あるいは


自然哲学大綱


ニコラ・フラメル著


 金属変成のなんたるかを識らんとする者は、それらがいかなる素から産まれ来たるのか、いかにして鉱石のかたちをむすぶのか、こうした命題へと答えを導かねばならない。大地のはらわたと血脈のなかに、いかに金属変成が遂げらるのか、あやまたぬように観照するべきである。

 大地からとりだされた鉱石にはさまざまに種類がある。その変成にかんする主題が提示されるのも、彼ら金属が霊的なものに由来するからなのだ。ゆえにあらゆる金属たちは、硫黄と水銀という、内に秘めたる性質へと還元するだろう。あらゆる金属が祖とするのは、まさにこの硫黄・水銀なのである。それらふたつは諸元素から構成された金属種子であって、かたや男性かたや女性である。男性原理たる硫黄は、火と風にほかならない。火たるまことの硫黄は卑俗のそれではなく、なんらの金属物質をふくむものではない。女性種子たる水銀は、地と水にほかならぬ。これらふたつの種子は、いにしえの賢者らの称するところ、それぞれ二頭の「龍」あるいは「蛇」である。一方は翼をもち、他方にはそれがない。火に燃へども飛ばぬ硫黄は、翼なき龍である。また有翼の蛇は水銀であって、風に支えられているがゆえ、しかるべき刻が満ちれば火から飛び去ってゆく。これは火に耐えうるほどには、固着の性質をもっていないためである。

 さて、これら二匹の蛇は、各々わかたれれば再びむすぶ。それはメルクリウスの秘めたる力にもとづく、つよき性質のなせる親和力である。メルクリウスとは金属の火であり、金属種の業初の母である。ふたつがこのように統合したメルクリウスは、哲学者らの称するところの飛龍である。この龍、怒りに燃ゆればわずかに飛翔しつつ大気を火でみたし、そして有毒なる蒸気をも充満させる。メルクリウスはこのように振る舞い、容器中に据えられて外的な炎に焼べられれば、その内部に秘める火を燃えたたせる。かくしてここに、外部にさかる炎が、メルクリウスの芯奥に火の性を焚くことが判るであろう。そのとき、いみじき臭気と致命的な毒素とともに有毒の蒸気が気中に噴出するのをもみるであろう。それはバビロンより迸る龍の首にほかならぬ。一部の哲学者らは、このメルクリウスをば翼ある獅子になぞらえているが、これは獅子たるもの他をむさぼる獣だからである。その暴怨に抗し得ずばすべては喰らわれ、悦に入るはただ彼のみ。メルクリウスは内にそのような活力と作用そして効力をもち、あらゆる金属の固有の形状をば腐蝕し、荒廃させることのまさに獅子むさぼるごとくである。その強すぎるメルクリウスの影響力は、あらゆる金属を喰らい、腹のなかに隠してしまうほどである。

 しかしながら金と銀はこの暴挙に抗する力を充分にもっている。加減を逸せる熱に晒されたメルクリウスは、これらふたつの金属ですら屠り、飲み込んでしまうことは良く知られている。けれども、ふたつはどちらもメルクリウスの性質には変えられてしまうことなく、その子宮のなかに包まれる。金と銀はきわめて永遠不変かつ完全なのであって、それに比すればメルクリウスなどは粗雑であって、不完全な金属なのである。

 にもかかわらず、メルクリウスには完全化の原質が含まれている。一般的な金、それは完全なる金属であるが、銀も、そしてその他あらゆる不完全な金属種もみな、メルクリウスから発祥したのだ。だからこそいにしえの賢者らはメルクリウスを、金属の母と呼んだのである。このようにメルクリウスには恒久性があり、断固としてみずからを消耗させることがない。ゆえに、ここには性質上、完全不変が秘められているとみるべきである。そして、みずからもまた金属種であるのだから、それは二重の金属原質を含んでおり、すなわち、内的原質たる「月」と「太陽」(互いに異なった様相をもつ)。これらふたつの原質はメルクリウスの胎内に霊気素のかたちで構成され慈しまれる。さて「自然」がふたつの霊魂をばメルクリウスに形成するやいなや、彼女はそれらを受肉させるべくつとめる。これらふたつの霊魂は生長し、ふたつの種子が目覚めると、みずからに似つかわしい体を装はむと望むのである。そのときに母なる水銀は死なねばならず(ふつう死んだものがそうであるように)かつてのような活発さはなくなってしまう。

 虚栄心つよくも尊大なる錬金術師らは、あいまいな言辞のもとに次のような示唆を与えている。完全なものも不完全なものも、ひとしく物体は、水銀の流体へと変成さるべきであると。この狡猾なる蛇に噛まれぬよう、危険には充分注意せねばならぬ。この主張はただ、不用意な輩への罠にすぎない。たしかに、メルクリウス(水銀)が鉛や錫のような不完全な物体を飲み込んで変成することは、真実である。このようにして量的な増加をうることは造作もなく可能なことだ。けれどもメルクリウス(水銀)がもともと帯びていた完全性は減少するか失われるかしてしまい、もはやメルクリウス(水銀)とは呼ばれぬものになってしまうのも道理である。このようにしてメルクリウス(水銀)は活気を失い絶望的状況に陥るが、化学の過程によって真実これが克服されれば、異なるものへの変化もありうる。すなわち辰砂あるいは 昇華物(昇汞)である。しかしそれが迅速な方式であれ緩慢な方式であれ、化学の過程によって凝固をおこなってしまえば、くだんの二体に恒久の形態を帯びさすことはかなわない。この凝固のまさに守備よく成就するは、自然の手順に則ってこそである。

 というのも、鉛の鉱脈にはかならず金と銀の永久なる実種が含まれているからである。メルクリウスの最初の凝固は鉛であって、それは固定させ完全化へと導くに最も適している。金と銀の実種が鉛に伴われぬことは決してないのである。それらは、あらかじめに自然が賦与したる繁殖と発展の意向なのである。これは私自身が経験しかつ証言しうることである。これがメルクリウスの内に存したまま、この鉱物から引き離されぬかぎり、自身のメルクリウスの原質から自身の原質を、増加させつづけることができる。けれども、もしこの固定した実種が取り去られ、メルクリウス(あるいは内にそれを秘めた鉱物)から切り離されてしまえば、もはや生長することができない。生長の如何が実種とともにあること、それは花の散った後、樹木に植物果実が形成されるのと同様である。熟さぬまえからもぎ取られてしまえば、それは何らのもたらすところなし。樹木に残されれば育まれて、親茎の樹液と果汁に育まれ生長する。かくして段階的に、適正な大きさと成熟に到達する。果実は親樹とのつながりが断たれぬかぎり、成熟をなしとげるまで樹木の樹液と果汁にみずからをひきつけ続けるものである。金についても殆ど同様である。そういう実種がみずからを鉛のメルクリウスにひきつけては、間断なく自身のメルクリウスへと「固着」させ、そうすることで生長し段階的に大きさを増してゆくのである。完全な金属にとっても不完全な金属にとっても、メルクリウスは親樹であって、実種(金の)はほかならぬこのメルクリウスによって育まれ得る。けれども親なるメルクリウスとの繋がりを断つやいなや、実種の生長はただちに終焉せねばならない。それはあたかも未熟な果実が樹木からもぎとられてしまったかのようだ。生命のつながりを復元しようと望んでも無駄である。自然の枝から、梨や林檎がいちど摘まれてしまえば、ふたたび樹に継ぎて熟させようとするなどは、まこと愚かなことである。生長する代わりにそれは次第に萎んで小さくなってゆくことであろう。

 同様のことが金属種の場合にも見受けられよう。だからもし誰か、卑属の金・銀の金属をばメルクリウスに融解しようと試みるなら、その者は非常に愚かなことをしていることになろう。そんなことはいかなる巧妙かつ狡猾な化学の過程によっても、もたらされるはずのない結果である。未熟な段階にいちど摘まれた果実は、決して再び生命的に親樹につなげられない。いみじくも賢者らに語られたことだが、金と銀が適正にメルクリウスをつうじて結合されれば、彼らは他のあらゆる(不完全な)金属を完全化する力を身につける。けれどもこれら賢者たちは卑属の金と銀について語っているのではない。それら卑属のものはいつも自身の性質のままであって、けっして他のものになりはしない。他の金属の発展に貢献することがないのは、確かである。それは時節のまえにもがれた果実であり、それゆえ死んでおり萎んでいる。違うのだ。「活きた」果実(まことに生ける金と銀)をこそ我々は「樹木に」もとむべきなのだ。そこでのみ果実はその性質の可能性にしたがって生長し大きくなる。我々はこの樹木を、その果実を摘み集めることなく、よりよく富んだ土壌、陽光の当たる場所へと移植すべきなのである。さすれば、そこにみのる果実は、以前の痩せた土地が百年かけて与える以上の滋養素をも、たった一日で受けとることであろう。

 メルクリウスについて理解せよ。それは最も素晴らしき樹木であって、分解できぬかたちで銀と金を含んでいる。それをば「太陽」(いわば、この場合、黄金)に近い土壌へと移植するべきである。そこで極めて繁栄するだろうし、豊かに灌漑されるであろう。かつて植えられていた所は、あまりに風や寒さに揺さぶられ弱められてしまうので、そこからは少しの果実しか期待できない。だからあまりに長い間そこに留まれば、果実をまったく稔らせることがない。しかし賢者の園にて「太陽」は、朝夕・昼夜に間断なくその温暖な影響力を放つ。我らの「樹木」は精妙なる霧で灌漑され、樹々にたわむ果実は日に日に膨らみ稔っては大きくなる。それはけっして萎むことなく、その一年の発展は、以前の不毛な環境における千年の収穫を超える。あるいは直截にいえば、メルクリウスをば蒸留器にて昼夜あたためるは、穏やかな炎であるが、しかし炭や薪の炎であってはならず、明るく清澄な熱気でなければならないのは、まさに穏やかだが温かい太陽のそれのごとくである。生長しつつある果実は、あまりにつよい熱気にさらされてはならず、さもなくばそれはしぼんみ縮んで、完全化をもたらすことはけっしてない。それは温暖な熱気を受け、樹木のほどよい湿気でささえられねばならず、それでこそ繁り増える。まこと熱気と湿気は、動物・植物・鉱物あらゆる大地のものの食餌である。一般的な炭あるいは薪の炎は、我らの目的には、あまりに強烈である。自然な影響力をつうじてすべてを保全する太陽熱のような滋養はあたえられない。このような道理から、賢者らはこの自然の炎いがい何ものも使わない。それは賢者につくられるものではなく、自然によってつくられるものである。動物であろうと植物であろうと鉱物であろうと、すべてを造り出す「自然」は彼ら各々をば適した程度にあたためる。

 それゆえ、ひとの為せるところなど、なんらの自然物をも造りえぬと言うべきである。けれども、人間の技術は、自然の造ったものに偉大な完全化を与えることができる、と私はいいたい。いにしえの賢者らが企図したこの目的は(ひとことでいってしまえば)月と実母メルクリウスのふたつから哲学者のメルクリウスを産出することである。術におけるそれは自然のメルクリウスよりもずっと力強い。自然のメルクリウスはただ、完全・不完全・冷・熱の、単純な金属たちに働きかける限られた作用しかない。しかし我々のメルクリウス、哲学者の石は、完全・不完全な金属に有効であって、いかなる減少も付加も変革もなく、ただちに再生し、完全化をもたらし、もとより完全なるものの状況を保全する。けれども私は、賢者らがこの目的のために卑属の金や銀をメルクリウスと結合すると言っているのではない。こんなものは無知のいかさま師の方法にすぎない。彼らはそれによって賢者らのメルクリウスを調合せんとする。しかし彼らはまことの「石」の第一物質の産出には、決して成功するまい。それを手にしようとするなら、七の山に赴いてはこれを征服せねばならず、険しき頂にて、その高みから遥か向こうに見える六を俯瞰しなければならない。さる賢者たちが鉱物とも植物とも土星(サトゥルヌス)的とも称した王者の薬草が山の頂にて見い出されるであろう。その糠糟はすておき、ただその純粋なる絞汁を抽出せよ。それは作業のよりよき部分を可能にする、是非とも手に入れねばならぬ真実かつ妙なる哲学者のメルクリウスである。さてまずこれは白き霊薬を、つぎに赤の霊薬を調合する。これは太陽と月がそれぞれに赤と白の霊薬を調合しもたらすことと同様である。その調合は、糸を紡ぐ女の仕事の滞ることなきいとなみほど、単純なものである。寒き冬日にも卵は洗わずともよし、そのまま雌鶏に暖めさせてもよし。ただ毎日、卵を転じるだけで、なんらの障害もなく、鶏は殻をやぶり産まれる。方法はなにも変わらない。そなたはそなたのメルクリウスを洗う必要はなく、ただその同類(それは火である)とともに灰(藁に相当す)へと据えて、ひとつのガラス容器(これは巣)、ふさわしい蒸留器(家である)に入れよ。このようにすれば、そこに鶏は生まれる。それは血によってあらゆる病からそなたを救い、肉によってそなたを満たし、羽によってそなたを着せて寒さから守るであろう。

 すべてのただしき錬金術師たちへと恵みを許したまうよう、万物の創造者に祈り懇願す。神の暗黙の善と慈悲をつうじ、私の賜はりし鶏を、いまや彼らが見い出すように。そなたを勇気づけ正しき路を示さんと、そなたのために私はこのしるべを記した。我が言辞により、賢者らの術をより完全に理解しうるよう望み、そう信じてやまない。

自然哲学大綱 Philosophical Summary,Nicolas Flamell 14c~15c

 ガストン・バシュラールの顰みに倣って、物質的想像力へと参入し、そのしあわせな働きに身をゆだねるのは、そう難しいことではない。『大地と休息の夢想』のなかにはミショー「魔法」のおどろくべき詩句が引かれている。「私はテーブルの上にひとつの林檎を置く ついで私はその林檎のなかに入る なんという静謐さであろう!」 物質の核心にもぐりこみ、からだ全体をかけめぐる微少なものへの想像力。その力動感をかくも的確に規範化しうる詩想など他になかなか求められるものではない。われわれは書物のなかを駆け巡るとおなじく、グラスにたたえられたブランデーのモルトとも戯れる。卵を割らずに黄身を味わう。あてどない金属変成の夢想を追い掛ける錬金術の思想と方法論は、一方でこうした物質的想像力のたしなみ、あるいは、ときに心理学的対象への膨大な注釈とも考えうるかもしれない。地中に結ぶ鉱物の実のはぐくみを、樹木の移植で助成するなどというのは、未だつたない化学の誤謬とみるべきか、それとも夢想の自然哲学か。

書誌

 ニコラ・フラメルは1330年頃パリに生まれ代書人を営んだ。またパリ大学直轄の写字・写本生でもあったが、これが厳格な試験を課され組合をなす高い地位の仕事であったことが、彼のパリ市民・ブルジョアとしての側面をあらわしている。他の錬金術文書の著者、トリツメギストゥス、バレンティヌス、ローゼンクロイツの伝統に漏れることがなく、実在の謎について議論は喧しいが、パリのサンジャック・ラ・ブーシェリ教会への寄与貢献が、彼の錬金術的成功のひとつの証左ともいわれている。その主著『聖なる寓意の書』(邦訳・ヘルメス叢書「象形寓意図の書」)は、サン・ドニ街イノサン墓地のアーチに彫らせた錬金術の重要な寓意図についての注釈であるが、この書物の来歴も、フラメルが代書人の仕事中手に入れた「ユダヤ人アブラハム」なる人物の書物に因っているという、重層的な謎を秘めている。

 ヘルメス叢書『象形寓意図の書・賢者の術概要・望みの望み』有田忠郎訳(白水社)にはフラメル文書の翻訳と詳しい評伝がある。今回下に紹介するのは「賢者の術概要」にあたる A SHORT TRACT or PHILOSOPHICAL SUMMARY であるが、錬金術論集『Musaeum Hermeticum,1678』あるいは『増補ヘルメス博物館,1893』所収のものとMcLean氏のサイトのJerry Bujas訳を中心により内容を簡易にまとめるかたちをとった。フランス語訳の底本としたものと訳者の参照しうるテクストに大きな隔たり(後者は前者のさらなる要約か)が見られたためでもある。しかし「ヘルメス学の大要」という論考の性格から、かえって冗漫にみえる部分が廃されたほうが適格なのではないかとも思える。とはいえ今回はどれが底本ということもなく、内容理解に重要と思われる部分は各テクストから盛り込み編んでいる。

 
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