十二の鍵  Practice with Twelve Keys and appendix,Basil Valentine,1400~1600?


12という数字は、それ自体かなり迷宮じみたおもむきを秘めている。2に応じて6を、3に対して4を内包しつつ絶対的観想に導き、我々の過ごす1年間、それに応じた黄道十二宮の占星術世界にまるく循環する。ここに与えられた「12の鍵」は、順序よく錬金術の秘密を教唆してくれるプロセスでありながら、ふんだんに盛り込まれた寓意と象徴によって我々を、意味や意義・目的をはなれた、きわめて自由な精神状態に解放してしまう。いにしえより多くの賢者たちが忠告してきた危険、あるいは分析心理学の恐れる無意識領域の奔出は、まさにこうした点にあるのではないかと思えてくるほどである。

篤く信仰を守るいましめのもと、心的(神的)な領域で把握される「奥義」の連続は、たしかに、卑しき者には無意味であり、こころ弱き者には有毒物にもなりうるであろう。読者よ、ゆめゆめ油断召さるな。

伝統的な錬金術のありさまを見極めようと多くの基礎文献にあたったことのある者ならばだれしもその姿を垣間見るであろうバシリウス・ヴァレンティヌス『12の鍵』。そこに語られた奥義はすでに心理学者ユングによる分析を受け、ファブリキウスによって覆いを剥がれたかにみえるが、現代人の研究的態度を超えて、中世古典テクストの味わいを、以下に存分、試みてみることにしよう。


書誌


1618年、ミハエル・マイヤーは『黄金の三脚台 Tripus aureus 』に重要な三つの錬金術論考をまとめた。このラテン語論叢の一角なす「十二の鍵」だが、すでに1599年 Ein kurtz summarischer Tractat に収められている。その後、数多く異版が17~18世紀にフランス語、英語、ドイツ語で刊行された。1678年にフランクフルトで出版された高名な錬金術文書集成『ヘルメス博物館 Musaeum hermeticum reformata 』には、前述の『黄金の三脚台』がまるまる収められている。

「強力な王」を意味する名を持つ著者バシリウス・ヴァレンティヌスの素性は、錬金術の世界においてひとつの大きな謎である。1515年、皇帝マクシミリアンはこの人物を明らかにしようと、ベネディクト修道院の名簿にこの名を求めて見出せなかったという。ヴァレンティヌスの著作には他に『太古の偉大なる石』『自然・超自然の存在』『オカルト哲学』『アンチモン凱旋車』などがあるが、これらいわば「ヴァレンティヌス文書」の作者は一説には、チューリンゲンの参事官かつ製塩業者ヨハン・テールデと目されており、16世紀末の10年間に書かれた作品群であるといわれる。



 

ベネディクト修道士、バシリウス・ヴァレンティヌスによる緒言

いにしえの賢人たちの偉大なる石に関して

 

 ひとの被りし受難の器、その残滓までをもうつろにせしとき、予はこの世の暗澹たること、そしてわれら人類の最初の両親が犯した重大なる帰結について考えさせられた。ひとにはもはや悔恨ののぞみなどなく日々これ粗悪なものとなりゆき、不信心のゆえにすべてを神の永劫の罰がおおっていることを知った。かくして予はすみやかに世のよこしまより己を遠ざけ、神意ヘの奉仕に身を捧げることにした。
 予は僧院で数年を過ごしつつも、日々の献身を終えたあとまだ若干の時間が残されていると感じた。邪念によってあらたな罪に導かれることのなきよう、予は怠惰なる刻を浪費したくはなかった。かくして、万象へと神が顕示したもうた自然の神秘の探究へと、予は刻をついやそうと心を決めた。予は僧院にのこる偉大なる書物の数多に読みふけることにした。これらは、斯道の探索を志した哲学者たちによって、蒼古たる時代に記されしものであった。そして先達にみいだされたものをおいかけなんという熱意がわきおこるのを感じた。はじめはなかなか研究は前進しなかったけれども、神はついに、予の熱心な祈りをききとどけ、いにしえの哲学者たちがかつて了解したものへと予を開眼させたのだ。
 修道院にとある僧がいた。彼はひどい腎臓のやまいに苦しんでおり、頼りにしたいかなる医師たちでさえいっときの安息すら与え得なかったために、彼は神の手にすべてをゆだねては、ひとのなしえる治癒をすっかりあきらめてしまっていた。
 予は兄弟への仁慈より、たくさんの種類の薬草を収穫してはそれらの塩を抽出し、いろいろな薬品を精製してみた。しかしいずれも彼者にはわずかな効果をも齎さなかったようで、六年ののちに予はおよそあらゆる植物原質の可能性をもはや試みてしまったのだと悟った。だが有益な効果はいっさい得られずじまいであった。
 とうとう予は、神が金属と鉱物のなかに秘めた奇蹟と美徳への研究に専念しようと心を決めた。これまでにも増した勤勉さで予はよりおおくのものをみいだした。ひとつの発見はあらたな開示を産み、そして神が予に許したもうた数多のこころみにて自然と本質、そこに秘められた効能についてはっきりと理解し、神によって金属と鉱物のなんたるかを知らされた。
 鉱物物質のなかに、めくるめく色彩をしめし斯術に偉大な効験をなすものを予はみいだした。この物質のなかから霊気的な核心を抽出した予は、たった数日のうちに、病に苦しむかの僧の完全な健康を快復するを得た。この霊気の力強さは、わが病める同胞のつかれきった霊気に活を入れるほどに偉大であったために、彼のものは天寿をまっとうするその日まで、絶間なき祈りのなかに予を想起した。かくして彼の祈りはわが尽力とあいまって、神のもとなる勝利となって、偉大なる秘密が予にもたらされたのであった。それは、己自身の自惚れに賢しきものたちから神が厳重に封印したものである。
 しかるに、この指南にて予がそなたに示さんと望みしは、予に語るを許されしこと、古代の石についてであって、そなたはまた、この地上の宝で最高のものについての知識を手に入れるであろう。それは、このかなしみの渓谷にそなたの安寧と逸楽をもたらすだろう。予は己のためで無く、のちの世のものたちのために書き記そう。たとえ予の言葉数は少なく簡潔であっても、みちびかれしそれら言辞には、はかりしれぬ重きが存する。これらを存分に吟味せよ。そなたは真実の礎石、現世の神の息吹、永久不変の報いたるいしずえをもまた、みいだすやも知れぬのだから。

 

ベネディクト修道士バシリウス・ヴァレンティヌスによる

いにしへの賢者たちの偉大な石に関する論考

 

 まず始めに、親愛なる読者、斯道をこころあつく希求せし学徒らよ、予はそなたに、我らが要石あるいは岩、これを生成する過程、いにしえの賢者たち――地上の生命にとっての健康と幸福にために神によって最初に我らが術の秘奥を啓示された者たちである――がそこからそれを引き出すことに成功した物質、についての知識を伝授することを約束した。
 なんじ予を信じよ、予はこの約束を完遂しよう、そして我らが術の規定が許す限り平明にそなたに語ろう、そなたが詭弁の惑わしによって誤解に陥らずに、そなたの前にあらゆる祝福の湧出が水脈の根源から開かれるように。予は詞に重層の意をもたせることの達人ではないから、言うべきことを言葉少なに簡素に説くことを約束する。予は、横溢する言辞が明瞭さに到るとも考えていない。反対に、予は多くの言葉がはなしを暗くしていると確信する。それゆえ、予はそなたに、多くの者がこの石の追究に従事したものの、これを見出し得た者はほとんどいないのだとこそ言っておこう。けっして神は、これが多くの者に知られることを望まれていないのである。むしろこれは、神が希少な寵愛――真理を愛し、虚偽を憎み、我らが術をひねもすによもすがら熱心に学び、その心まごころに神に据えたりし者――のためにとっておいた賜物とこそ考えるべきである。
 ゆえに、なんじ我らが偉大なるいにしえの石をば調合せんと欲するならば、予はそなたに、まったき真実のもと、万物を超越して万物の創造者の慈悲深き祝福を懇請し、そなたが入念なる留意を払うべき教義を明かそう。また、そなたは自身の罪をこころより悔い改め、かつ告白し、聖なるよき生をおくらむことをかたく決さねばならぬ。またなんじには、神の言を絶する賜物へと感謝の念を示して、貧しきや困窮せしを救い、弱き者にそなたの手と心をよせることも必要である。さすればこそ神は、そなたのはたらきを祝福し、その探求の成就をかなえ、そなたをその信仰のみのりとして天界の籍に据えるであろう。
 われら以前に石を手に入れた者の誠実なる著述を蔑んではならぬ。なんとなれば、神の恩恵に照らされてより、予がわが智慧を得たるは、まさにそれらのものからであったのだから。そなたもまた、それらから学びそれに続かんことを。洞察の糸をうしなったり英知の灯火を絶やすことのなきように。
 そなた学びに専心せよ、気紛れも二心も禁物である。そなたの精神を堅固な岩のようにすればこそ、そこに賢者たちのさまざまな詞のすべて、それらに共通の含意の一貫が帰着するのである。異なった方向へと簡単に影響される者には、正しき路は見出せそうには無い。
 われらが驚くべきいにしえの石は、可燃性物質に由来することはなく、そなたは火の試練に耐え得ぬ物質にそれを求めるのは止めるべきである。こうしたことから、植物物質を用いることができると考えるのは不合理である。石もまた、成長倍加の原理が授けられたものではあるのだが。
 もしわれらが石が植物物質であれば、それは、他の植物どうように、火に焼き尽くされてしまい、若干の塩基成分を残すのみである。たしかに、いにしえの著述には、われらが石を植物であるかのように記したものがある。だが、その名は その寸法が草木のように育って大きくなるという事実を示唆している。
 また識れ、動物種はただその属種のなかでだけ繁殖するものである。ゆえにわれらが石はただそれ自身の実種からのみ調合しうるものであって、それは初めに手に入るものである。そして、それゆえにこそ、なんじは(1匹の)動物の魂はこの探索のもとめる物質ではありえないということに気付くであろう。動物というものはそれ自体が大綱なのである。そういうものから得られるものは一切が、その性質においては動物ではありえない。だが、いにしえの人々より予に相伝されたわれらの石たるや、ふたつの事物から抽き出されつつも、ただにひとつのものであって、そのなかには第三のものが秘められている。これは純然たる真実であって、いつわりなき言辞である。なんとなれば、昔から男性と女性は単体であると看做されてきたのであるが、それは如何なる表装によるものでもなく、そこから自然に発現されては互いをひとつに導く相互の愛の情熱の故にである。さらに、男性と女性のように、種子は連帯的に繁殖の原理を明かすので、われらが石の因たる精子は蒔かれてそして増加することができるのである。われらが物質(のなか)には、ふたつの補足的な種子があり、そこから、われらが石は調合され倍加するのである。
 そも、なんじわれらが術をまこと愛する者であれば、そなたは注意深き熟考のもとにこれらの言辞を推し量るであろうし、人類共通の敵によって設えられた危うき落し穴に陥ることもないであろう。だがなんじこの種子をば手にしたとすれば如何にぞや?この問いになんじは、自身に更なる問いを課すことでいともたやすく答えることであろう。己はこの種子より何を生じようとするのか、かつまた、これを造出することで何に使おうというのであろうか。疑いなくも、それは最初の物質の、金属種の根源たるものに相違なく、そこからあらゆる金属がその起源を引き出したものであるのだ。それゆえに、今やわれらが金属の生成についての話題に触れねばならぬのは必然である。
 原初において、神の精霊(意思・気息・息吹)が水面をたゆとうたとき、いまだあらゆるものどもは闇に飲まれおり、永劫よりの万能と永遠もつ神はそのはかりしれぬ思慮の天地を創造するによりて、そこに内包されしものはすべて、視えるものも視えざるものも、無空より井で来る。いかにして創造の御業は為されたりしや、予の説き得ぬところである。これは、聖書のなかでわれらに説かれた主題であり、そして信仰によって理解さるべきことである。
 神は各々の被造物に自身の種子を与えられ、それによって同種を伝播し、このような仕儀で、ひとや草木や金属の種の増加はありうべきこととなった。ひとの身には、あたらしき種子を造ることは能わぬ。ひとにはただ、既存のものから新しき生命のありようを抽出することが許されているだけである。種子の造出は神のみにぞ能うものであって、ひとが種子を造れれば、ひとは創造者と同等になるであろう。
 識れ、われらが種子は以下の方法で造られる。神の意に定められ、天空の作用は上方より降りきたっては、星辰の資質(星気体)と混ざり合う。この結合が起こったときに「ふたつ」は「第三のもの」を産むがこれはいわば地上的な物質であって、これが初源たるわれらが種子の根本となるもので、それゆえにこれは起源発端を眼前にし、これをこそ水、風、地の三元素は起源とする。これらの元素は、火の造成のもとに潜行的に作用し、ここに、ヘルメスをはじめ予にさきだつすべての達人の造成した、三つの根本原理とよばれる、内的な霊魂、不可触の霊気、可視の物体、とでもいおうものが存し、その彼方に、われらはこれ以上遡れぬ、われらが変成の初めを見出せるのである。
 ときを経て三つは結合し、それは火の作用を通じて触れ得る物質へとかわるが、これがいわば、水銀、硫黄、塩である。この三つの物質が混合したとき、それらは堅固に凝結して完全な物体となり、それが造物主の選定した種子の代わりをつとめる。これが最重要かつ確たる真実である。金属の魂、金属の霊気、金属の物質形式があらわれれば、そこには金属の水銀、金属の硫黄、金属の塩もまた存し、それらは共同して完全なる金属物体をつくりあげる。
 この点で理解すべきことを了解しえぬのであれば、そなたは哲学的修練に身を捧げるべきではない。
 さらに、予はそなたに幾つかの言葉を語ろう、そなたはこの三原理を唯一へと完全に結合しなければ金属体を得ることはならぬ。また識れ、あらゆる動物種は人間のごとくに肉と血から成り、そしてまた活力与える霊気を内に秘めるが、理力の魂は欠いており、それは創造者がただ人間だけに与えたものである。それゆえ、動物というものは死ねば永劫の消滅を免れない。だが、ひとは造物主の手へとその終えた人生を渡せどもその魂は死ぬことは無い。それは戻り来たって栄誉ある肉体に和合し、復活の後にそのなかで魂と霊気は永遠の至福のもとにもういちどともに住まうこととなり、永劫にわかたれることはないのである。
 ゆえに理力の魂はひとを永続的な生物とし、その体は死んだようにみえても、われらはその者が永遠に生きることを知っている。彼にとって、死とはただこれ浄めの過程にすぎず、これによって自身の罪より解き放たれて、別のより良き場所に転地されるのである。だが、野蛮なる獣の類いに復活はあり得ないのは、それが理力の魂を欠いておるからであって、われらの主たる救い主はその血を滴したのがまさにそこなのである。
 だから、霊気に活力を鼓吹された肉体といえども、それはいまだ固定されるを必要とはせずまさに理力の魂を得るを俟たねばならぬ、これが肉体と霊気をつよくむすぶのであるからふたつの統合を示しており、それらを分たむとするあらゆる作用を撥ね付ける。魂なきところにあがないの望みはない。魂なく完全永遠たりえるものはない。これは深淵欠くべからざる真実であり、予が読者に伝えんとして心砕くところである。さて、金属の霊気にはつよくもよわくもこの固着の特質がある。それらは、肉体と魂の、相互の適合の程度に応じて揮発性の強弱をもつのだ。金属のなかには安定性を決定する三つの条件があるわけだが、それは火によっても変質しないしいかなる外的な要因にも影響されない。だが、これらの条件をすべて満たすただひとつの金属種があって、これがいわば黄金なのである。銀もまた固定した水銀をうちに秘めているが、それは不完全な金属のように尚早には揮発せず、火の試練に能く耐えては、大食のサトゥルヌスの食餌を譲らない。
 好色なるウェヌスは豊かな彩りの衣をまとい、その全身体躯はひとつの純粋なる色素であって紅に似ていなくもない。それはいとも貴き金属に見出される。だが彼女の霊気が佳き資質をもつといえども、その体は癩に冒されており、色素を恒久的に安定させる基盤にはなりえない。ゆえに魂は不完全な肉体とともに宿命を分有せねばならず、肉体が滅べば魂はそこから去らねばならない。そのすみかは火によって破壊されてしまい、住まうべき家の無い状態となる。
 固定した塩基は硬く安定した耐久性の物質としての好戦のマルスに与えられたもので、彼の魂の寛大なることを証すものである。火ですらその力を拉ぐことは叶わぬといえよう。そしてこの力がウェヌスの美と統合されれば、これは尊き調和の結実を手に入れたこと以外のなにものでもない。月のもつ粘液質で多湿の性質は、ウェヌスの沸き立つ血によって熱せられて、ウェヌスの暗雲はマルスの力強き塩によって除かれるのである。
 なんじ、われらが金属の種子を諸元素のなかに求めることはない。さほどに探索を遡る必要はないのだ。金属の霊気と肉体が金属の魂にて互いに不可分に結びつくまで、ただそなたは水銀と硫黄そして塩(賢者のそれと心すべし)を精留できれば、そなたは結果として愛の鎖に鋲を打ち込み、戴冠式のための宮殿を設えるのである。
 これらのことは液体が鍵となる。それは天界の作用にも匹敵し、地上の物質と結びついた乾いた水である。これらすべてはただにひとつのことであって、三つ、二つ、一つのことに由来する。そなたもしこれを感得すれば、われらが自然変成力を成就したも同然である。さすればこそ、そなたは夫と妻をばともにひとつへと結び、おのおの肉と血を供させ、かくして何千にもその子孫を繁栄さすべし。
 予はそなたに喜んでこの主題をより平明かつあからさまに明したいところであるが、予はそのようになすを禁じられている。それは、神の法、天罰の恐怖、いとも高き賜物が濫用されるによって永遠に失われるを恐れるゆえである。
 しかしながら、なんじがもし予の著述の思弁的な部位を理解し得ないのであれば、おそらくは実践的な部位はなんじをより十全に啓発するに役立つことであろう。予はそれゆえ、神の援助を得て、予がいかにしていにしえの「石」を調合したのかを示すこととしよう、そして、なんじにとってはより示唆に富むこととなろう予の十二の鍵を加えよう、それには、われらが術のための象徴寓意画を付加する。
 一定量の最良質の純粋の金を用いよ、そしてそれを斯術を愛する者に自然が与え賜うた媒体によって成分ごとに分離せよ、ことあたかも解剖者の人体を吟味するごとくである。かようになんじの金をば、金たるの由来に還すべし。さすればなんじ、種子、始源、中央、究極を見出すであろうが、それはわれらの金、その女性原理の由来なのであって、それはすなわち、純粋かつ繊細な霊気、無垢なる魂、そして星の塩基そしてバルサムなのである。これら三者が統合されるとき、われらはそれをメルクリウスの流体と呼ぶのである。水、それはメルクリウスによりて試みられ、純粋かつ無垢なるを確かとされ、それゆえにこそ彼の妻と娶られたものである。それらふたつは、不燃性の油から産まれる。メルクリウスはあまりに誇り高く、自らを知ることは殆どない。それは鷲の羽を生じ、だらりと垂れた龍の尾を喰らい、マルスへと戦を挑む。
 そのときマルスはその騎手を召還し、メルクリウスを包囲してウルカヌスの統治下に幽閉するよう命ずるが、それは女の性のひとつによって解放されるまでのことである。これが知られることとなれば他の惑星は集合し、いかなる進路が適応するに最良かつ賢きことか、疑念に熟慮を重ねるに至る。彼らが皆揃って会ったときに、まずサトゥルヌスが前に出て、以下のように発言し始める。
 「我サトゥルヌス、蒼穹の諸惑星の最も偉大なるものが、此処にて汝らすべてを前にかく宣言す、我は此処にものしおるすべてのなかで最も劣る利益なきものであり、我の体は脆く、腐敗しやすく、黒ずんだ色合いであり、だが、それでもなお、汝らすべてを試練にかけるは我なり。我をば固定することなくしては、我は我ととともに一致する性質をば持ち去るのだ。我の不幸悲惨はまったくもって定かならぬ移ろいのメルクリウス、彼の者の不注意かつ怠慢のふるまいに因りて引きおこさるものだ。それゆえに、我はなんじらに請願す、彼奴に復讐し、其者を捕獲し幽閉せよ、彼が死に腐敗し……いや、彼の血の滴りが見えなくなるまで。」
 そうすると黄色のユピテルが進み出て、その膝を曲げて笏を傾け、最高権力をもってサトゥルヌスの命を遂行するよう全員に告げる。処罰の判決を支えぬ者は誰であれ罰するであろう旨を彼は付け加える。
 かくしてマルスが剣を抜いてその姿を現す。その剣はたくさんの彩りに輝き、美しくも比類なき光彩を放つ。この剣は彼の番人たるウルカヌスに与えられ、これにてメルクリウスを斬り殺し、その骨もろともに灰にまで燃やすよう命じられる。ウルカヌスはかくするよう承諾する。
 彼が刑の執行をしている間、そこにたくさんの水で織り合わさった長い銀の衣をまとった美しい淑女が現れるが、それはすぐに「月」すなわち「太陽」の妻であると認められる。彼女は膝を折って両手を広げ、涙を流しながら、その夫「太陽」を、諸惑星に拘留されおるメルクリウスの奸智のたくらみから自由にするよう皆に懇願する。だがウルカヌスはこの要請を受け入れるを拒む。彼のこれに心和らぐことなきは、淑女ウェヌスの熱心な信奉者であるからであって、彼女は緑の綴り糸で織られた深紅の衣を纏っており、美しい面貌と両の手にもつ花の芳香で皆を魅了するのである。彼女はカルデア(アラム語)の調子でウルカヌスをとりなして、女は囚人を解放しようとつとめるものだということを彼に想起させる。だがそれにさえ彼は耳を貸そうとはしない。
 彼らの議論が続いている折に天が開き、そこにあまたの子孫を引き連れた獰猛な獣が現れるが、それは前衛に看守を率いており、その口を大きく開けてウェヌスを飲み込み、その佳き賛同者はそれと同時に大きな声で宣言する。「おれは女から産まれ、女がおれの種を殖し、そして地を満たすと共に彼女の魂はおれに捧げられ、それゆえにおれは彼女の血で育まれねばならぬのだ。」獣が大声でこれらの言葉を吐き終えると、さる部屋へと急ぎ入り、背後の扉を閉める。この大食の雛はそこへ入ってゆき、前述の不燃油を飲み、それをいとも易々と消化して、それによって以前よりさらに数多となる。彼らは全世界を覆い尽くすまでこのようにし続ける。
 かくてその地方の博学なる者たちは集い来て、彼らのみたものの意味するところを見いださんと励んだ。だが彼らは、尊ぶべき長老が現れるまでは、同意に至るを得なかった。それは雪のごとき髪と銀髪の髭をたたえ、紫色の流麗な長衣で着飾っては、頭には石榴石(カルブンケル)の燦爛たる冠を頂いており、彼の腰には生命の帯がめぐらされ、裸足の彼のことばは人間の魂の底までも貫く。彼は高座に臨み、集まった者たちへと静粛たるよう命ずる。彼らの目前に起こったことへの重大意義を説くのである。
 完全な沈黙が広がってから、彼は以下のように語り始めた。

「目覚めよ、人間どもよ。そして汝、闇に欺かれぬよう光に眼を向けよ! 深甚なる眠りの中で、神々はわたしにこの主題を明かした。天来の力の偉大な作用をこそ識る者は幸いなるかな。 闇をみるより前に光にこそ眼あく者は恵まれしかな。

「ふたつの星辰は神々によりてひとに与えられ、そを偉大なる叡智に導く。そこから眼を離さず、その光芒に従うべし、さすれば汝は隠されし叡智を見出すことであろう。

「不死鳥は南方より来たり、そは東方よりきたる恐るべき獣の心臓をひきだす。東方の獣へと、南方の鳥に敵うべきところを賦与すべし。東方の獣は獅子の外貌に乏しく、その翼を欠いているのである。さすればこそ、それは塩の水の広漠たる海に沈め、そして再興せる美のもとに浮かび上がらせるべし。汝の揮発する霊気をば、汲めども尽きぬ泉の深淵に沈み込め、かくして彼らは彼ら自身の内に隠され、「三位」に由来する母親のようになる。

「ハンガリーはわたしの生まれた国で、空と星々はわたしの住処、大地はわたしの配偶者である。わたしは死して塵に還る命運ではあるが、ウルカヌスがわたしを新しく生まれ変わらせる。それゆえ、ハンガリーこそがわたしの故郷、わたしの母は全世界を包んでいる。」

そこにいる全員が彼のこうした言葉を受けたとき、彼は以下のように続けた。

「上なるものは下なるものに同じという所以である。見えるものは見えざるものなり。触れうるものは触れえぬものなり。繰り返そう、下なるものをば上なるものとなせ。不可視を顕現させ、不可触に触れよ。そなたはここに、欠陥なきわれらの術の極致を見る。だが生と死、破壊と再生のあわいにあってとどまるるものは、まるい球体であり、それは運命の女神の戦車を引くものであって、神が人に与えた叡智の賜物を伝えるものなのだ。地上に於けるその正しき名は、ひとの身の理解において『全(All in All)』である。

「この『全』のなんたるやを識る者は、地に大きな翼を与え、風を切り裂いて天まで飛ばすべし。そして激しい熱でその翼を焦がし、紅海へと墜落させよ。そして地が再び現れるまで火と風によって水を乾かし、かくして汝は『全』を得ようぞ。

「そなたもし斯様な方法にてそを見出さざれば、この世の事物らをとくと観察せよ。さすれば汝『全』をば見出すであろう。これは塩基と硫黄と復活した水銀とから引き出された、あらゆる金属鉱物の誘引力である。わたしはこれ以上『全』については語らないが、それはすべてがすべての中に包含されている(全は全に於いて理解される)からである。

「わがともがらよ、祝福されてあれ。かしこき言葉を聞きて偉大な石を手にする者よ。それは病や不完全な金属体を癒す力を有し、すべてを再生させるのだ。ひとを健やかに保ち、長生を実現する。それは、弱って死ぬまでわたしの奥に燃えているとおなじ生命の火をもっているのだ。

「彼の叡智と慈悲により、太古からわたしに授けられた優渥なる賜物により、今もまたこれからもわたしは神に感謝を捧げる、かくあれかし。」

 このように語ると老人は、衆目のまえからふと姿を消し去った。
 だが彼の言辞を聞いた皆はそれぞれの家に帰り、沈思黙考すること日ごと夜ごととなった。




これより述べるは十二の鍵

ベネディクト会修道士バシリウス・ヴァレンティヌスによるもので

ここにてわれらは、とびらをひらき

いにしえの石に至るべくあらゆる叡智を

完全治癒の秘密の泉をば開封す

第一の鍵

 わがともがらよ知るべし。混ざりものや汚れたものはわれらが目的には全く役に立たない。やまいにかかっている自然物にはわれらが術のかなめを前進させるべき何ものをもみいだせない。むしろより善い可能性を残すものをすら、この不純なるものは損なってしまうだろう。いっぽう鉱洞より得られるものにはなんでも、混合をされない限りはそれ自身の価値がある。しかしながら不純物の混入はその精髄と効験をはなはだしく損なう。
 あたかも医師がその医術をもって肉体内部の各部位を清めたり浄化したり、すべての不健康の因縁をとりのぞいたりするように、われらの金属物質はあらゆる外的要因から清められ純化されねばならない。かくしてわれらの使命の成功は確保されるであろう。それゆえわれらが師範は純粋かつ汚れなき物質を要求する。それはいかなる外部からの混合にも汚されていないものである。混合物はわれらが金属のやまいである。
 王の戴冠は純金たるべし。かつまた女王を純潔で汚れなき婚姻にて王に結合させよ。
 そなた、もしわれらの物質を用いて作業をせんとするならば、獰猛なる灰色狼を捕らえよ。たとえそれがその名称ゆえに戦を好む火星の支配に属するものとしても、その来歴はふるき土星の子孫である。それは渓谷や山脈ある地域で見い出され、飢えて荒野を放浪している。かのものに王の肉体を喰わせるがよい。喰い尽くしたらば偉大なる炎にてそれを完全に灰まで燃やせ。この行程にしたがって王は解き放たれるであろう。作業がみたび成し遂げられたときには、獅子が狼を凌駕すが、狼がその内部に喰った以上のものは見い出されはしない。かくしてわれらが物質は作業の第一段階にかけるよう適し整った。
 知るべし。これこそわれらの物質を精製浄化するための、唯一ただしく、ありうべき方法であるのだ。獅子は狼の血でみずからを浄め、その血のいろあいたるやなんとも驚くほどに、獅子のいろあいに合致するがゆえ、ふたつの流体の互いに酷似していることがわかる。獅子の飢えがいやされるとその精力気力はかつてよりさらに力強くなり、両の眼は太陽のごとくきらめく。体内の核心は今や計り知れぬ価値を有し、すべての欠陥欠如を駆逐し、あらゆる病を治療するだろう。やまいわずらう十人の患者はそれを追い求め、その血を飲まんと欲す。やまいに苦しむいかなる者たちもこの血によって癒される。
 この黄金の泉から飲んだ者は誰でもみずからの本質からの刷新を体験しあらゆる不健康の原因の消滅を、血液のあらたなる供給を、心臓などのあらゆる中枢の強化を、そして四肢に充ち渡る永久の活力をあじわうだろう。それは毛穴のすべて開き、肉体の完全なる健康を阻害するようなものをすべて追い出してしまう。しかれども体内に残留すべき有益なるものは煩わさず、そこへそのままに保つのだ。
 だが、わがともがらよ、くれぐれも注意すべし。生命の泉はきよらかに澄んだ状態で守られねばならぬ。もしもそこへ異種の液体などが混ぜ合わされるとそれは台無しになるばかりか、おそろしく有害なものにさえなりうる。崩壊するについやされてしまってもまだ溶媒がいくらか維持されているならば、そなたは慎重にそれを除去せねばならない。いかなる腐食性のものも内面的疾患の防止にわずかなりとも役立つようなことはあり得ないからである。
 酸性を帯び健康を害するような果実をみのらせている樹木に気付いた際には、その枝は切り落とされねばならず、よりよい木々の若枝がそこへ継ぎ木されねばならない。若き枝々たちは樹木の幹へと組織的に結びつく。おなじ樹液ではぐくまれるものの、枝々は今後そこから丈夫によくできた果実をつけるものだ。
 王は天界の蒼穹の六領域を経めぐり、第七天にてそこを住処として定める。王宮は黄金の垂れ幕で飾られる。そなた、わが言辞の意味するところを理解するならば、この鍵は最初の施錠をあけ、そして最初の閂を外すであろう。しかしさもなくばなんらの驚異も展望もなく以下に続く秘密を詳らかにはできぬであろう。けれどもルキウス・パピリウスはこの鍵に関してこれ以上語らぬようにわたしに命じた。

第二の鍵
 偉大なる邸宅にては色々な種類の飲料が給仕される。そのうち二つだけは香りと色と味が互いによく似かよっている。めくるめく多様のやりかたでもって飲料がつくられているからだ。それでもやはりすべて飲料は飲まれるためにこそに在って、めいめいにはそれ自身の特有の効能が備わっている。太陽は光を放出しあまねく雲海にそそがれる。これは一般に太陽による水の誘引と呼ばれていて、そうした太陽の動きが頻繁なほど降雨がひきおこされる。それは実りおおき年とも呼ばれている。
 大邸宅を築き上げようとするならば、各々にさまざまに職能を備えたあまたの工匠たちを雇わねばならぬであろう。まことに多様な素材も必要とされる。大邸宅とはまた、ただそう呼ばれることで価値あるものとなるわけではない。石材の必要とするところに木材を使用するのはよしなきことである。
 日々の潮汐と海流の運動、それは天体の支配力の交感共鳴に起因し、大地へと偉大なる富と祝福をもたらす。戻りのうねりで水が来るときはいつでも、それにともなって祝福が導かれる。
 花嫁、それは婚姻さるべく差し出されるときには、まことに多様の価値あるうつくしき衣装の数々で華々しく着飾られる。このように彼女のうるわしさを高めることで、彼女の喜悦は新郎の双眸のなかにかたちづくられる。ところが婚礼初夜のいとなみには、彼女はいかなる被いもなしに振る舞う。まさに生まれしそのときの姿そのままである。
 おなじくしてわれらが婚姻の一対アポロとディアナは華麗な衣装で着飾り、そして彼らの頭部と肉体はさまざまな種類の水で清めらるる。液体は強力なものも繊細なものも、いずれもひとつとして同じものはなく、それぞれは各々の特別な目的に応じて用意される。知るべし、大地の湿気が蒸気のかたちで立ち昇るとき、上方にてそれは凝縮しみずからの重みで沈澱する。かくして大地はいちど奪われた湿気をとりもどし芽吹き葉吹くちからをつける。同様にしてそなたは大地からすでに抽出した水を、たびかさなる蒸留にかけねばならない。ある一定の限度に達するまでに、いくども岸辺より去り再び岸辺に覆い被さる海峡の瀬戸の水のごとくにである。
 このようにして大邸宅がたくさんの工匠たちの技芸によって建築されたなら、「硝子の海」は一連の罪悪を放免し、邸宅は贅沢な調度で満たされる。かくして王の入宮と玉座への就位は万端整った。けれどもそなたは留意せねばならない。王とその配偶者は互いに結び付けられる際には、完全にはだかでなければならない。かれらは輝かしい衣装のすべてを剥ぎ取られねばならず、産まれたままの剥き出しの状態でともに横たえられねばならぬ。いかなる外的要因によってからもかれらの種子が損なわれぬように。
 聞くがよい。新郎の配される浴槽は、結論から言って、二つの反目する物質要素から組成されねばならず、それは互いの不断の闘争によって清められ精留するのだ。高峰の頂に営巣するのは「鷲」には望ましいことではないが、それは彼女の幼子がそこに蔓延する厳寒によって凍死するというあまりの危険に晒されるからなのである。
 しかしそなたが、「鷲」に氷の「龍」--それは岩場に永く住まい、大地の洞窟から這い出てくる--を付加し、またそれらをともに火に焼べるなら、燃えさかる霊気が氷の「龍」より顕現するであろう。それはおのれのすさまじい熱によって「鷲」の翼を焼き尽くし、なみはずれた熱度の蒸風呂を準備する。氷雪はその頂より溶け水となり、かくして爽快なる鉱泉の浴槽ができあがるであろう。そして繁栄と健康と生命そして権力が王の元に回復される。

第三の鍵
 水によって火は消え、すっかり絶えてしまうものだ。たくさんの水がちいさな火へと浴びせられれば、火は圧倒され、水へと勝利をゆずるよう強いられる。おなじ流儀によって、われらが灼熱の硫黄は、すでに調合されたあの水をもちいることで征服されねばならぬ。けれども、水が消滅したあとには、硫黄蒸気の燃えさかる生命は意気揚々とふたたび勝利を手にせねばならぬのである。しかし、王が偉大な剛毅と権力を水に賦与し、それを自身の色彩でもって染めぬ限りは、かような勝利の凱旋は催されない。王はそれが故に、焼き尽くされ不可視のものとなろうが、単純明快なるその真髄を減退させ、かつその完全化を推し進めることで、ふたたび可視の形態をとりもどせるであろう。
 白色のうえに黄色を、黄のうえには赤あるいは緋色を、画家は着色し得る。なぜならばこれらすべての色彩が現出するにせよ、それでも尚いまだ後者は一層に強い色彩において勝っているのであるから。そなたがわれらの術においておなじ流儀を成就すれば、目前に叡智の光を得る。それは燃えていなくとも、闇に輝くのだ。われらが硫黄は燃えてはいない。しかしかなたにもこなたにも、その光輝はみうけられる。それはなにものをも着色し得ないが、用意が整い自身の色で染まると、脆く不完全なあらゆる金属に賦与される色彩となる。しかしながらこの硫黄は、まずそれがもつ本来の色彩を放棄させるための弛まぬ作業によって第一義を得るまでは、色彩を与えられないのである。弱きものは強きものに勝てぬがゆえに、勝利を譲らざるをえない。小さく弱いものはそれ自身小さく弱いものを助成し得ず、そして、可燃性物質はほかの物質を燃焼から保護できないというところに、すべての問題の大綱がある。他の物質を燃焼からまもるものは、それ自身が危険から免れていなければならぬ。後者は前者よりも強靱であるべきで、それはいうなれば、本質的に不燃物でなければならない。賢者の不燃性硫黄を調合せんとする者は、われらが硫黄を不燃性の物質中に求めるべきである。それはただ、実体が塩の海に吸収され、そこから再び吐き出されたあとにのみ在るものである。これは、あらゆる天空の星々にもまして輝くよう、ひじょうに高貴なものにされねばならない。そしてその精髄において、それはペリカンのごとくに豊富な血液を持つべきである。それは、みずから胸を傷つけるものの、強き力は弱まることがない。そして、その血によって多くの幼きものを養い育む。この染色素は、われらが悟達者の薔薇である。紫の色調を帯び、龍の赤き血とも呼ばれ、華麗なる外套は幾重にも覆われた救済の女王を覆った。これによりあらゆる金属は色彩を再構築する。
 この壮麗なるマントは、それを硫黄と結合されることで危害から保護する星界の塩とともに、入念に保つべきである。そこへ鳥の揮発性を充分な分量で加えよ。かくして雄鶏は狐を飲み込み、水に溺れつつも、火に胎動し、かくして狐に飲まれることになろう。

第四の鍵
 地より産まれしすべての生ける肉体は、腐敗を経てふたたび大地へと回帰せねばならぬ。そして地の塩は神々しき蘇生力をもってあたらしき世代をうみだすのだ。始源のときに地のなかったところでは、われらが術の統制力をもってしても復活はありえないのである。天然の香油と賢者の塩は、大地を拠り所としているのだ。
 この世の終末に世界は炎によって裁定されるであろう。神が何ものにもよらず無から造りたもうたものどもは、炎によって死灰へと変わり果てるであろう。そしてその死灰からこそ不死鳥は、子を産み出すことになるのである。眠れる死灰のなかで、純粋真性の酒石性物質は溶かされ、それは王宮の秘所を守っているもっとも堅牢な閂を開けることをわれらに可能にする。
 大火災を経てあらたな天とあらたな地が形成されよう。そしてあたらしき人類は、栄光授かりし領界にて、かつてよりもいっそう高貴な存在となるであろう。
 砂と灰が、火によってよく熟成され仕上げられたなら、硝子から容器が作られる。それは炎の中にても堅固にかたちをたもち、水晶石によく似た色あいである。経験あさき者にとってこれは、大いなる神秘であるが、しかし長き経験で作業過程に慣れ親しんだ達人にはそのかぎりではない。
 また達人は、燃焼によって石から生石灰をも調合する。これはわれらの作業にとても役立つものだが、それらは火によって調整されなければ単なる石である。石は火によって熱せられ仕上げられねばならないのだ。そうしてこそ石は力強くなり、灼熱の石灰の霊気と比肩しうるものはもはやほとんどなかろう。
 燃焼によって如何なるものを灰にしても、そなたはそこに塩を得るであろう。もしこの溶解において、硫黄と水銀が別々に保持されて、そしてその塩に戻されるならば、そなたは燃焼の過程でそこなわれた形状をふたたび取り戻すであろう。この主張について、世の賢人たちはおおいなる愚行として非難し暴挙ともみなした。かような物質変成が新たな創造に迫ることであるとして、神はそのような創成の力を罪深き人類には許容しないと彼らは考える。しかしながら愚かなのはまったく彼らの方である。われらが術は、なにものかを創造しようと企図などしておらず、造物主のその手に用意されていた種子から、ただ新しきものをひきださんとするだけなのだ。彼らはそのことを理解していないのである。
 そなたは灰を所有しなければ、われらが塩を得ることはできないだろう。われらが塩なしには、われらが物質に現世での姿形をあたえることは、そなたには叶わない。すべてのものの凝固は、ただ塩によってのみ可能になるからだ。
 塩は偉大なる保有の原則であるので、それはあらゆるものを腐敗から守る。術の統制力の塩は、腐敗分離と根底からの霊魂消滅から金属を保護するのである。もしそれらの香油が枯渇してしまえば霊気は物質より去り、物質は完全に死んでしまうであろう。そしてもはやわれらの術には役立たなくなってしまう。金属の霊気は飛び去って、その住処を虚ろに、剥き出しに、無生物のままにしてしまうであろう。
 また留意せよ、そなたこの術を熱望する者よ。灰のなかから得られた塩には偉大な潜在力があり、たくさんの隠れた美徳を備えている。それでもやはり塩はその内的な実体が蒸留抽出されぬきとられるまでは無益なのである。ただ霊気のみが力と生命を与える。物体そのものはなんら役に立つものではない。もしそなたが、いかにこの霊気を見つけるかを知るならば、他の多くの書が語っているあの賢者の塩と不燃油を手に入れるであろう。

あまたの哲学者たち

我を熱望して捜してきたけれども

まだ、成功した者は殆どいない

我の秘めし美徳をみいだすには至らぬ

第五の鍵

 胎動をはじめた地の勢力は、芽生えゆくべきあらゆるものを産み出す。地中に生命宿らずという者あれば、その声明はひどくありきたりの事実によってにべもなく否定されるであろう。死せるものは生命力と育成力を実らせることはできず、そこには活性化した霊気が欠如していることが見出せるのみである。この霊気は生命であり魂であり、地を栖として天界と星の影響力をうけて育まれる。あらゆる薬草、樹木と根、そしてあらゆる金属と鉱物は、地の霊気より育成力を受け取っている。それは生命の霊気である。霊気そのものは星々から滋養をうけており、それゆえにあらゆるものへと養分を分配できる力を与えられている。あたかも子を胎内に宿した母親のごとくに、万物を養育する力なのである。鉱物らは地の子宮に秘められ、天空より授かりし彼女の霊気によってはぐくまれるのだ。
 予の示唆している育成の力とはこのように、地によって伝達されるものではなくその内部に存する生命賦与の霊気によるのであるからして、もしも地から霊気が去ってしまえば地は死して、もはやどんなものにも滋養を与えることは能わない。その硫黄あるいは富裕には活性化した霊気が欠けており、それなくしては生命も成長もありえないのだ。
 対立するふたつの霊気はとうてい同居かなわず、またそれらは容易には結合しない。ふたつの霊気は、暴風雨のさなかに稲妻を一閃させ、すさまじい衝撃と爆音とともに互いに飛び交い宙に円を描く。この騒乱のさなかに、それらふたつの霊気の行方を認知しうる者はおらず、これら霊気を現出せしめる流儀に則した実体験によってはじめて、以上のことは確認される。
 そして知るべし、親愛なる読者よ。生命とは唯一真正の霊気であり、無学なものどもが死とみなしたものにさえ、その物体に霊気が戻されることで、永久不変で可視的の霊気的な命をとりもどすであろう。霊気、それは天界の滋養で養われ、天界の、元素の、大地の実体から生じ、それはまた混沌の因果とも呼ばれる。さらに、不可視の愛の結び付きでそれを引き寄せる磁力を鉄がもっているように、われらが黄金にはそうした磁力があるのだ。いうなればこれは、偉大なる石の第一義でもある。以上わが言辞を理解しうるならそなたは、あまねく世界のより裕福かつより恵まれた者たりうる。
 もう一つの注釈でもってこの章をしめくくろう。ひとは鏡に向かうとき、そこにみずからの表象の反映をみる。けれどもそれに触れようとするなら、それは触れ得るものでないと悟ることだろう。かくして彼はただ手を鏡にかざすのみである。同様にして、われらが物質より放出された霊気は、眼にみえこそすれ触れ得るものではない。この霊気は、われらが物体の生命の根幹、哲学者の水銀であり、そこからはわれらが術の流動液の水が調合される。水はふたたび実体形態をとり、ある清浄の媒介によって最も完全なる医薬へと精留されねばならない。われらは安定した触れうる物体より術を始め、それは結果的には揮発性の霊気・黄金の水となり、いかなる物質変換もなしに、われらが賢者らはそこから生命の原理をひきだす。究極的にわれらは、人類と金属のからだに有効な不滅の医薬を手に入れる。心からの祈りにより神の手に求め、神と、困窮した隣人とへ差し出された奉仕による、本物の感謝の証明をささげるのでなければ、それは人間たちによりもむしろ天使に認知されるべき達成である。
 結論として付け加えよう。ひとつの仕事は他のものから発達する。まず、われらが物質は念入りに浄化されねばならず、溶解され破壊されて、腐敗させられ塵と灰へと戻らねばならない。そのうえで、そこから雪のように白い揮発性の霊気と、血のように紅い揮発性の霊気をむかえよ。これらふたつの霊気は、第三の霊気を秘めているがただひとつの霊気である。今やこれらは三つの霊気であり、生命を保ち増やす。それゆえ、これらを結びつけよ。これらに肉をあたえ、自然の要求するものを飲ませ、完全なる生誕がおこるまであたたかい室にとどめよ。かくしてそなたは、神そして自然より与えられた賜物の美徳をまのあたりにし経験するだろう。また知れ、これまで予の口唇が何者にもこの秘密を明かさなかったことを。神は自然実体により偉大なる力を賦与したことを。その力はあまりに偉大であり、たいていの者は信じようとはしないほどである。神はわが口に封印をしたが、予の後にも他の者が、自然の素晴らしき神秘について記す機のあるやも知れぬ。けれども依然として愚かなる者どもはそれを、自然法則に反するものとみなすであろう。彼らには理解できぬのである。究極的に万物が、超自然の原因へとさかのぼりうることが。かつ、世界のこの現在の状態が、自然の制約のうちに従属していることが。

第六の鍵
 男性には女性がなければ半身であるとみなされる。女性に男性なくしては完全とはみなされない。どちらも単体であるかぎりはみのりがないためである。けれども二者が婚姻し結ばれるならばそこに完全なる肉体があらわれ、彼らの種子が増加できる条件が整う。
 もしあまりに多くの種子が場に蒔かれれば植物は互いの成長を妨げあってしまい熟した果実は実らない。とはいえあまりに少なければ雑草が蔓延ってはそれを蝕んでしまう。
 公明なる良心をもつ商人ならば、隣人にただしき秤をさせよ。彼のものの秤と錘が不十分な代物でなければ、彼は貧者から賞賛を得ることだろう。
 多すぎる水にては、そなたはかんたんに溺れてしまうだろう。とはいえ少なすぎる水は、太陽の熱のもとかんたんに気化蒸発してしまう。
 そなた切望する目標に達しようとするならば、賢者の液体物質を混合するさいに正しき秤をば遵守すべし。あまりの負荷も、あまりの僅少も、生成を妨げることのなきように。多すぎる雨は果実を損ない、あまりの旱魃も育成を妨げる。それゆえ、海神ネプチューンが浴槽を設えるとき、必要とされる永遠の水の分量を注意深く、少なすぎず多すぎずに、正確に計測せよ。
 両面貌の炎の男には、白雪のごとき白鳥を喰わせねばならず、互いに殺しあいをさせつつも互いの生命を回復させねばならぬ。そして幽閉された炎の男の気息は、世界の四方位のうちの三部に充満するだろう。炎の男により三部が作り出されれば、白鳥からの死の歌が、はっきりと聞き取れるだろう。こうして、焼かれた白鳥は王の食事になり、火の王は女王へのつよい愛にとらわれて、それを抱く歓喜に充ちてゆく。かれらの肉体が消滅しつつ、ひとつの体に合体しつつ。
 とりわけもし彼らがその力を引き出すに充分な部屋を持つ場合に、二は能く一を拉ぐ、と概していわれるところである。また知るべし。そこへは二倍の風、ひとつの風が来るべきであり、それらは東から南から、猛烈に吹き付けるべきである。それらが荒れ狂い終えたときは、空気は水となり、そなたはこのように判断してもよい。霊気的なものはまた物体の形状へと変成されてゆき、そしてわれらの総量は四季をつうじて七惑星が力を及ぼす第四の空域における勝利をつかみ、その過程はわれらの宮殿の深奥における火の試練によって仕上がりつつあるのである。二者が、第三を拉ぎ焼きつくさんとするときこそ。
 われらの術のかような部分は必要とされ、物質の正しい分解と合成によって術はゆたかな結果になろうし、そして天秤は平等なる錘による偽りなき正当となるだろう。われらの語る空域とは、われらが術の空であり、そこにはただしく釣り合いのとれた空と地が、われらの真実の水と明晰なる火の要素がなければならぬのだ。

第七の鍵

 自然熱は人間の命を維持する。体がその自然熱を失えば、生命は終わったことになる。
 おだやかな具合の自然熱は冷気にあらがう保護となる。その過剰は生命を破壊する。太陽の実体が地に触れることは必要ではない。太陽はそこへその光線を放つことで地を熱することができる。それは反射により強められる。この中間の作用因は太陽の作業をなし、煮沸によりすべてを熟成させるにまったく充分である。太陽の光線は、空気を通過させることで加減される。空気の媒介をつうじて作用するように。空気が火の媒介をつうじて作用するように。
 水なき地はなにものをも生み出し得ないし、地なしに水はなにものの成長も促進できない。地と水が、果実を生産するに相互に不可欠であるように、火は空気なしに、空気は火なしに、作用できぬ。火は空気なしに生命を保てない。そして火なしに空気は、熱気も乾燥も帯びることができぬ。
 その果実が熟そうとするとき、葡萄の樹は春におけるよりもずっと、太陽の暖気をものすごく必要としながら立っている。そして秋に太陽が輝き照りつけるならば、葡萄の実は、秋のあたたかさを感じなかった場合よりも、ずっと良くなるだろう。
 冬に、すべてを死していると群集が想定するのは、地が氷結の鎖に縛られ、ゆえになにものも発芽するを許されていないからである。しかし春がくるやいなや、太陽の力によって寒さが征服されると、すべては生命を取り戻し、木樹と葉は芽吹きだし、葉をつけ、花咲き、冬ごもりしていた動物たちはその隠れ家より這い出してきて、植物たちは甘い芳香を放ち、すばらしく種別に富んだ色々の花々で飾られる。そして夏は春の仕事を続ける、花を実にかえることで。
 かくして年また年に、万物の運行は、遂にその創造者によって破壊されるまで遂行され、そしてすべての地の居住者は復活によって栄誉の生命を回復するであろう。そのとき、地上的自然の運行は終焉を迎えて、そして天界的な永遠性の摂理がとってかわるであろう。
 冬の太陽がわれわれから遠く離れて彼の運行を追求するとき、彼は深い雪を溶かすことができない。しかし、彼がより近くにわれわれに近づく夏には、空気の品質はより燃えさかるがごとくであり、そして、雪は溶けて、暖かさによって水に変えられる。弱きものはいつでも、強きものに屈するよう強いられているのだ。
 同様の穏やかな過程が、われらが術の炎の食餌に適合させられねばならぬ。重要なことのすべてはこうだ。液体はあまり速く乾燥されてはならず、賢者の地はあまりすぐには溶解されたり解消されたりしてはならず、他方ではそなたの魚は蠍に変えられるであろう。そなたが正しくわれわれの作業を実行するならば、霊気的な水を得よ。霊気は初めからそこにあった。そして、密接に閉鎖された室にそれを保持せよ。天界的な街は、地上的な障害に包囲されようとしているからだ。そなたはそれゆえ、それをつよく強化せねばならぬ。三の通行不能な 能く防護された壁で。ひとつの入口を充分に保護させ。そして叡智のともしびを照らし、それによってうしなわれた総体を追求せよ。必要なだけの明るさを灯しつつ。そなたは、地の表面にひとが適正な住処をもつのに対して、寒冷と湿った地には蛔虫と爬虫類が住むことを知らねばならぬ。一方で天使の肉体は罪や不純によって損なわれておらず、それは極端な熱にも冷にも傷つかない。ひとが栄誉を与えられたときには、その肉体はこの点に於いて天使的肉体のごとくになるだろう。われらが、魂の生命を慎重にそだてあげるならば、われらは神の子、神の後継者となろうし、今は不可能にみえることを成し遂げよう。しかしこれは、すべての水を乾燥させ、火によって天と地と総ての人間を浄化した際にのみ成就されることだ。

第八の鍵
 人間の体も動物のそれも腐敗なしには倍加も繁殖もし得ない。穀物とあらゆる野菜の種子はいちど地に蒔かれたならば芽吹くまえに腐敗せねばならぬ。かつまた腐敗は生命を多くの虫や微細動物へと伝播する。倍加と胎動の作用は主として地において発揮される。一方でそれは、他の諸元素を介して霊気的種子に起因する。
 卵が分解変容せねば鶏は得られぬことを農夫の妻は知っている。パンが蜂蜜に浸され腐敗に呻吟すればそこにアリが発生する。ひとであれ馬であれ動物の腐敗する肉体をば虫は発生源とする。蛆虫もまた木の実や林檎や梨の腐朽により発生する。
 同じことが植物に関しても見受けられるであろう。刺草や他の雑草は種子が蒔かれなくても生え育つ。これは腐敗によってのみ起因する。その理由はこうだ。そのような地の土壌には傾向があって、それはいわば肥沃なのであるからこそこれら成果を顕示する。これは星辰の支配力のなせるところの帰結である。ゆえに種子は霊気的に地にうまれて地に腐敗し、自然界の種族におうじた肉体的実質を諸元素の作用にあずかりつつ生成する。あたらしく霊気みちた、そして完全なる、鮮やかな植物種子は、このように腐敗をつうじて星辰と諸元素により生成されるのだ。しかしながら人間にはあたらしき種子をつくることはできぬ。諸元素の作用と根源的な星辰の支配力を治める力は人間のものではないのだ。環境の状況によるものの、新しい植物はただ腐敗を通じて発生する。この事実は農夫にも気付かれてはいないが、それはただそのことにいつも慣れ親しんでいるからであり、説明をみいだすことができぬものなのだ。けれどもそなたは庶民の群よりも知らねばならぬ。事物の根源を探り、いかにして腐敗による生成と再興の過程が完遂されるのか、いかにして腐敗から総ての生命が生み出されるのかを理解せんと努めねばならぬ。
 おのおのの元素は順ぐりに、内部に含まれるものにより変質せられ再生せられる。そなたは知らねばならぬ、いずれの元素も他の三要素を含んでいるのだ。「風」たとえば、そこには「火」「水」「地」が存する。この主張は信じられぬことかも知れぬが、しかしそれでもやはり真実である。同様の流儀で「火」の含むは「風」「水」そして「地」であり、さもなくばそれはなにものをも生成し得ない。「水」の含むは「火」「風」そして「地」さもなくば、なんらの育成もあり得ない。おのおのの元素は明確に不同のものでありながら、にもかかわらず、各々に他を含んでいるのだ。以上のすべては諸元素の分離における蒸留によって見い出される。
 理に適った釈義を与えるには、自然物を分析探究する者よ、諸元素の分離を識らんと心決めし者よ、そなたはわが言辞をつくりごといつわりと思うことなかれ。われはそなたに教唆せん、そなた「地」を蒸留すれば以下を見い出すであろう。まず第一に、そこには「風」の逃亡があり、段階に応じていつも「火」を含む。それらは共に霊気的精髄であり抵抗できぬ相互の牽引力を及ぼす。第二に、「水」は「地」から生じそして「地」は、貴重な塩を内に秘めつつみずからは容器の底に残留する。
 「水」が蒸留されるときに「風」と「火」がそこから噴出しそして「水」と物質的「地」は基底に残留する。一方で元素的「火」の不可視の要素は抽出され、そなたはそれら自身により「水」と「地」を得る。また他の三元素は「風」なしには存在できぬ。「地」に生産の力を、「火」に燃焼の力を、「水」に稔りの力を与えるのは「風」である。けれども「風」はなにも消費できず、火によって与えられねばならぬ自然の熱気なしには乾きも湿りもしない。熱をもち乾いているものすべては「火」を含んでいるのだ。これら考察からわれらの導きうる結論は、どの元素も他がなくば存在しえず、万物の生成には四元素の混合があるということである。異を唱えるものは自然の秘奥を極めるにかしこきことなし、諸元素のありさまを識るを得ぬ。あるものが腐敗により生起しようとしている際には、その過程は以下のようでなければならぬ。「地」はそれが内包する湿気により最初に分離される。湿気あるいは水なしにまことの腐敗はあり得ないのだ。かくして腐敗物質は火の自然熱で焚付けられ胎動をはじめる。自然熱なしには生成は起こり得ない。さらにそれへと生命の閃光が賦与されたならば、それは運動と成長へとかきたてられ、「風」の作用を受けている筈である。胎動はじめた物質といえども「風」なしには胚種のなかで詰まり窒息してしまうのだ。それゆえ明確にあらわれることは、どんな元素も他の諸元素の助力なしには効果的に働けず、なにを生成するにせよ、すべてが貢献せねばならぬということである。かくして彼らの胎動せし協調は腐敗の形式をとり、さもなくば生成も生命も成長もあり得ない。造物主によりアダムが「地」から造られた際には、神が活発な霊気を彼に吹き込むまで彼のなかに生命はなかったという事実からも、四元素の協力なしには完全なる生成と復活はあり得ないということが、そなたには判るだろう。「地」は運動へと加速された。「地」にあったのは塩すなわち肉体である。そこへ吹き込まれた「風」は水銀もしくは霊気であり、そしてこの「風」は純真かつ適切な熱気を彼のものに与えた。それは硫黄もしくは「火」である。かくしてアダムは動きはじめ、その運動の力をもって精気を与える霊気が注がれたことを示した。「風」なくば「火」無きがごとくに「火」なくばまったく「風」もまた存在しないのだ。「水」は「地」と混合せらる。このようにして活ける人とは、四元素の調和的混合物なのである。そしてアダムは「地」「水」「風」そして「火」から、魂から、霊気そして肉体、水銀から、硫黄、そして塩から組成された。
 おなじ流儀でイヴ、われらが共通の母は創造された。彼女の肉体はアダムの肉体から構築され形づくられたのだ。これはそなたにとりわけ留意して欲しい事実だ。
 ふたたび腐敗の原理へと戻ろう。ああ、術の統制力を探るものよ、哲学への帰依者よ、知れ。同様にくだんの種子がそれ自身単独でのみ、いかなる外来の物質の混入なしに完全なる腐敗を遂げぬかぎりは、金属的種子は発達も増大もしない。
 金属的種子の腐敗は動物種や植物種のそれと同様でなければならず、四元素の協調を通じて行われるべきである。諸元素そのものは種子ではないことはすでに説明した。しかし、今やそなたに明かす必要がある。天界の星辰、元素的精髄の作用による協調作用から生み出され、そして肉体の形式へと下降した金属的種子は、しかるべき刻がきたれば諸元素によって朽ち、腐敗されねばならぬ。
 この種子には活きた揮発性の霊気が宿っていることに留意せよ。種子は精製されることでまず霊気をほとばしらせかくして激情をおさめる。しかしゆるやかな加熱を続けることでそれは酸となり、霊気は以前よりも揮発性をよわめる。酸の蒸留において水は段階的に霊気を放出する。物質はおなじように残留しているものの、その資性ははなはだ異なったものとなる。それはもはや葡萄酒ではなく、おだやかな熱気の腐敗によって酸へと変換せられたのだ。葡萄酒あるいはその霊気によって抽出されたものは酸で抽出されたものとは、甚だしく異なる特性と力を持っている。葡萄酒あるいはその霊気でアンチモンの結晶を抽出したならそれは嘔吐と下痢を引き起こす。なぜならそれは毒物だからであり、そしてその有毒の性質は葡萄酒によってでは中和されないのだ。けれども善く蒸留された酸で抽出されれば、豊かな色の美しいエッセンスが供給される。酸をば「聖マリーの浴室」によって除去し、黄色をした粉末状の残滓が洗い流されれば、そなたは清らかな粉末を手に入れる。それは下痢など起こさず、むしろ驚異的に有益なる医薬とみなして然るべきものである。
 この卓越した粉末は湿った環境下には溶解し液体化するが、これは外科手術において麻酔薬としても有益に使用される。
 予の言うべきを手短に要約しよう。物質は天界に由来しその生命は星辰によって保たれ四元素に育まれる。それは枯れ腐りそして腐敗せねばならぬ。ふたたび星辰の影響によってそれは諸元素を通じて働き、生命を取り戻し、もういちど天空のたかみにを極めて居住地をかまえる天上的なものとなる。かくしてそなたは見い出すであろう。天界的存在は地上的物質をば受肉し、そして地上的肉体は天界的物質になる原理を。

第九の鍵
 土星、惑星の最も偉大なものと呼ばれる者はわれらが術に益するところは少ないが、それでもやはり術の全体の重要な鍵でもありながら、最下位の卑俗なる位階に就いている。その迅速なる飛行により天空を極みすべての光体の遥か上空に昇るのだが、その羽は短く切られて最下層に引き降ろされ、腐敗により活性化する。このようにして黒は白へとかえられそして白から赤へと、勝ち誇る王の輝ける色彩が達成されてゆく。ゆえにわれは斯く語ろう。世にも邪悪にみえる土星だがそれでもかような活力効力を秘めており、過度の冷気もつこの希代の真髄は揮発性をうばうことで金属的な実体をとれば、それは土星そのもののごとくに実体化しつつもはるかに定着したものたりうる。この物質変換は水銀と硫黄と塩によって開始され継続され完了される。以上は多くのむきには難解かも知れぬし、かならずや内的な如才へと並外れた要求をする。けれどもそれはかくあるべきことである。なにものの手からも届きうるところに物質はあるがゆえ、富めるものと貧しきものの相違を神のごとくに規定する路は他にないのだ。
 土星を調合するにあたっては異なる色彩がめくるめく多彩に現出する。そなたはここに黒・灰色・白・黄色・赤、かつ中間の段階にすべて異なる色彩を連続して観察するよう予期せねばならぬ。同様に、なべて賢者の物質はいくらかの色彩の相違をくぐりぬけるが、それは新しき入り口の門が火へと開かれる度毎に外観を変えると言えるかも知れぬ。
 王はその尊厳を金星と分有し壮麗な位階にあらわれ宮廷のすべての高官たちに囲まれている。彼の前には美しい深紅の旗がありそこには慈愛の表現が刺繍されている。緑色の衣に身をつつむ「土星」は宮廷一族の総監であり、彼の前衛にて「天文学」は黒旗を支え持ち、黄と赤の衣につつまれて信義をあらわす。
 「木星」は雄渾の将軍であって灰色の旗の背後にたち、「修辞学」に導かれて「希望」の多彩なる表徴に飾られている。
 「火星」は軍事の筆頭であり燃えさかるゆるぎない熱情をもってその職務を遂行する。「幾何学」はそのおもてに深紅の旗をたて、そなたはそこに深紅の外套の「勇気」をみるであろう。「水星」は「首相」の職務を補佐する。「算術」はその御用達の運び手であってその基準となる軍旗は多彩ないろあいである。たくさんの色の長衣には「節制」の図案が見受けられるであろう。
 「太陽」は摂政補佐であり「文法学」の背後に控えつつ黄色の旗をもつ。そこには「正義」が黄金の長衣をきて顕示されており、「金星」の華麗壮大な外貌がそれへを陰らせるようにみえるものの、王国で彼は彼女よりもずっとまことの力を備えている。
 「月」の前には「弁証法」が輝ける白銀の旗を持ちそこには空色の地に「思慮分別」の図案が描き込まれる。「月」は夫に先立たれ、女王ヴィーナスの支配に抵抗するをその使命としている。これらすべての心根には敵愾心があって、彼ら全ては互いにとって変わろうと力を尽くすのだ。まことに事象の傾向というものは、もっとも秀でたもの、もっとも相応しいものに高き地位を与えることである。事物の現在のありさまはつかのまのものであり、新しき世界はまさにつくられようとしている。ひとつの惑星は唯一最強が生き残るまで他の霊気を食らいつくすのだ。
 予はそなたに寓話的に教唆しよう。そなたは天界の「天秤」に白羊宮、金牛宮、巨蟹宮、天蠍宮と山羊座を配置しなければならない。「天秤」の他方の秤にそなたは双子宮、人馬宮、宝瓶宮、処女宮を配置せねばならぬ。獅子宮を処女宮のひざへ飛ぶようにさせよ、さすればそれはもう一方の秤が光線をはねつける。そこで黄道帯の符号を同位元素群への反対に入るようにさせよ。世界のすべての色彩がみずからの姿を顕わしたときにこそ、偉大と卑小の、卑小と偉大の、結合と一致を具現させよ。

 

もし全世界の自然が

ひとつの姿で確かめられたら

術によりなにも発展させられないなら

なんらの驚異も宇宙には見出せないだろうし

自然はわれらに何も語らぬであろう

それゆえにこそ、神を賛美賞賛しようではないか

 

第十の鍵

 予と予のはるか先達らが語りしごとくに、われらが石の内部にはすべての元素すべての鉱物金属の様態すべての品格性質とあまねく世界の構成要素が封じ込められている。われらはその内奥にきわめて強力な自然熱をみいだすが、それは土星の凍れる物体をゆるやかに変成し最良の黄金にする。高度の冷気をも内に秘めたるそれは、熱烈なる金星の炎を緩和することで水銀を凝固しかくして最良質の黄金へと変えられる。かような価値のすべてはわれらが石の構成要素のなかに眠っており、自然の炎の緩やかな煮沸に熱せられることで育まれ全きものとなり最高度の完成に至る。たとえば樹木の果実が熟さぬうちにもぎ取られてしまえば、それはなんの役にも立たない。陶芸家が炎のなかにて硬化をしそこなった器などは、いかなる寵用に与かることもない。
 われらのエリキサの調合にあたってそなたが少なからぬ忍耐を果たさねばならぬのも同じことである。たとえそれがそなたの望むなにものにもなりうるものだとしてもである。いかなる果実でさえ時節いぜんに摘まれてしまった花から実ることなどできない。彼はただ確実に手にあるものを台無しにするだけで、あまりに性急なるがために、到達しうる完全なものなどはなにもないのだ。そう、思い起こすがよい。われらの石が充分に熟しおらねばそれはなんらの成熟をももたらし得ないであろうことを。
 物質は浴室にて溶解されその要素は腐敗によって再結合される。灰のなかにてそれは花ひらくのだ。すべてその過ぎたる湿気は粒砂のかたちに乾燥させられる。成熟と固着は生命の炎によって達成される。正確には作業は「聖マリアの浴室」や馬糞や灰のなかあるいは粒砂のなかにて生起するわけではない。空の炉にこれら石が調合されたことで判別される頃合のあとに、三重の巡回線が現れる密封された閨房にて、増しゆく炎の程度と支配力にそれは見受けられるのである。すべての湿気と雲が払拭されるまでそれは継続的な煮沸にかけられ、かくして王は不滅の固着に達し、そしてそれはもはやいかなる損傷の危険からも免れる。かれは征服されざるものになったからだ。少々ことなる言辞でもって予の意味するところを要約しよう。そなたの「地」そなたの「水」を溶解しおえたなら、その内なる「火」によって「水」を乾燥させよ。さすれば「風」は新しき生命を肉体に吹き入れ、そなたはそこにただ偉大なる石として考えうるものを得るであろう。それは霊気的な流儀で人間と金属物体にあまねくわたる。またそれは全一的でくまなき医薬であり、悪しきものを駆逐し、善きものを守るがゆえに、あらゆる不完全あるいは病める物体のための尽きせぬ刷新薬である。この染色素ティンクトゥラは赤と紫の中間色であっていくぶんか花崗岩の色調を帯びており、その依拠する重量はかなりのものである。
 この石をわがものにしうる者は誰でも、苦しめる同胞への慈悲を実践することでその全生命を神への感謝としてささぐであろう。神の最も偉大なる地上的な賜物を手にしたものは永久の生命をうけつぐであろう。このうえなき賜物を与えたもう神へと、永久不変の賛美をたたえよ。

第十一の鍵
 われらが石の倍加についての心得たる第十一の鍵は寓話によって示そう。
 「東方に金箔の騎士の華々しきあり。名をばオルフェウス、莫大なる富をもち意中に望むところすべてをわがものとなしけり。妹たるエウリュディケをば妻に娶りしども子をえ成さざりければ、かの者これをばはらからとの婚姻ゆえの罪の咎とおもいなし、ただちに帰依して神に祈ること昼夜をとわず呪詛の解けなむことを懇請しける。
 ある晩かのものふかき眠りに沈むとき有翼の使徒フォボス来たりてかのもののいみじく熱き足に触れつつかく語りき。汝けだかき騎士よ、汝あまたの街や国を彷徨ひては、海を航り、いくさを勝ち抜き、槍の手合わせに多くを突き倒し、かくしておおくを耐え忍ぶがゆえ汝が祈祷の成就せしところ天上の父君の吾に命ずるはかくのごとしなり。血こそとるべきは汝が右身から妻が左身から、そは汝らの両の祖が心臓の血であるがゆえに似通いたるもののごとくに見えたれども、げに能うものにては唯に一のものなり。血の各々をば混ぜ合わせ、七のかしこき悟達者らの球体にかたく封じたもつべし。其処にて生ずべきは己が肉と血にてはぐくまれ、八たび月の変はりしときこそ成熟の途を遂ぐべけれ。汝かへすがへす此を返へさば子の子を生むを見い出さん。かくして汝が肉より生まれし子らは世に満ち栄へん。
 使徒のかく語り終へしほどに、かのもの天上へと翼を広げたり。あしたに騎士はおどろきて天上が使徒の命をば執りおこなひ、かくして神はかのものと妻に数多の子をこそ与え給ひけれ。彼子らは父なるものの栄光、富、騎士の名誉を継承しけること代々になりけり。」
 そなたが賢き者ならば、わが息子よ、そなたはわが寓話の釈義をよく判じるであろう。もしこれを解き明かせぬのならば、その罪咎はわれに寄せるでなくそなた自身の無智に帰すがよい。わが意図するところはこれいじょうに明らかに表明できぬ。まさにわれは先達の誰よりも平明かつ直截なやりかたで主題を暴き出し、ここでわれはなにも秘密にしなかった。だからそなたがその両の眼から無智の覆いをとりのぞけばそなたは見るであろう、おおくの者が捜しながらも、少数にしか見い出しえなかったものを。

第十二の鍵
 武器の扱いに疎い剣士は、素手のほうがましに戦える。同じ武器に習熟せし敵手がそを迎え撃つならば、事態はなおよからぬ様相を呈する。知識と経験をばみずからのうしろだてとする者は、必ずや勝利をおさめる命運にあるのだ。
 ことおなじくして、全能の神の援助のもとにこの染色素を所有せしといえどもその者、用法において疎ければもはやそれを所持せぬがよかろう。ゆえに以下に述べる第十二の最後の鍵は、そなたへとこの石の用途を顕示するよう奉仕することになる。この章の要素を扱うにあたって寓話的かつ比喩的な文体をわれは与えよう、そして包み隠さずに知らるべきことを述ぶ。なべて賢者たるもの医薬と石をば、まことの乙女が乳より完全なる調合をなすものであるが、その一片を、アンチモンにて浄められ精錬された最良の黄金の三片に混合する。黄金はあらかじめ能うかぎりの薄き板状にのべられておるべきである。以上のすべてを溶解精錬の容器に入れよ。そしておだやかな炎の作用に十二時間かけよ。然る後に三昼夜のあいだ溶けるに任せよ。
 黄金の発酵なしにはなんぴとも石を構成し得ないし、染色能力を引き出すことはできぬ。同一種はたいへん精妙かつ浸透性あるものである。それ自身によく似た酵母に接して発酵することで調合されたティンクトゥラは他の物体へと入り込み、内部からそれを制御する力を得るのだ。調合された酵母の一部をとりて溶解せし金属の千の部分を染色するがよい。信仰と真実のすべてのもとそなたは、それがただ極上かつ安定した黄金に変わるのを見い出すことだろう。ひとつの体が他の体を占領したのである。たとえ互いが似ていなくとも、それは付与された推進力と潜在能により強いられて同一物となる。同種が同種から起源を誘引したのである。
 これを媒体として使う者は誰でも、そのものの精妙さに匹敵しうるものなどなにもないことを理解し、宮殿の門戸がいずこへと導かれるかを見い出すのだ。彼はあらゆるものをその手におさめ、陽光のもとに可能たる総てを成し遂げる。
 ああ大原理の原則よ、究極をば熟考せよ! ああ最終の帰結よ、始まりを熟慮せよ! そなたの篤信のもとこの媒体は委ねられ、父なる神、子、聖霊もまたそなたの霊魂にまれ肉体にまれ必要とするありとあらゆるものを与えるであろう。



哲学の石の最初の主題(物質)に関して

 件の石を求めるには、肉ならぬもの、またそこからは揮発性の火が抽出され、さらにそこからこそは石が造成されるが、これは赤と白から構成されている。それは石であって石ではない。ただ自然だけがそこに作用したものだ。そこからは泉が湧出する。固定した部分にはその父が没しており、そこに魂がもどるまで、それを肉体と生命ともどもに吸収している。揮発性の母はそれに似て、彼女自身の王国を結実する。そして彼は、彼自身の価値と力によって恐るべき力を得る。そのとき揮発性の母は夏の太陽を凌駕するものをつくる。このようにして、父は、ウルカヌスの手によって、霊気から造られる。肉体と、魂と、そして霊は、そのぜんぶが生ずるところに、ともにあるのだ。それは一者から由来し、それ故にただひとつなのである。凝固したものも揮発性のものもともどもに決する(Bind)べし。それらはふたつであり、みっつなのだが、しかしただにひとつでもある。汝これを理解せねば、何ら得るところは無いであろう。アダムは浴槽の中に――そこにウェヌスは好みをみつけた――その浴槽には、アダムが完全な脱力状態にあるときに、年経た龍が現れる。それは哲学者がsaveしたという二重の水銀に他ならない。それ以外の物質がそのように呼ばれることはないと、予もそう言おう。これを理解する者の祝福されてあれ。そこに求めよ、そして倦むことなかれ。労を惜しまぬ者にこそ、帰結は下されるのだ。

みじかき補遺 前述の論考の復習

 予、ベネディクト修道会のバシリウス・ヴァレンティヌスは、この小著をなした者と証言するもので、ここには、いにしえの賢者らのひそみにならって、いかにしてこの稀代なる宝物――これによってまことの賢者らは、その最高限度までも命長らえた――の獲得されるかを、予は哲学的に指示した。
 だが、予の良心が予に証を提示させたのは、天主の判断によるところであって、誰の前にも秘められた主題があからさまになるよう、また、予はいかなる欺瞞も記すことなく、むしろ、あまりにも剥き出しになった真理はもはやいっそうの明かり(思弁的な部分でおかれたものは、十二の鍵の実践によって支持される証拠となり確立される)も必要とはしないほどに人々に理解されるものであるのだが(そうした私の良心にもかかわらず)予は前述の論考をより簡単明瞭に明示しようというさまざまな企図に駆り立てられる、そうすることで、より深淵なるところまでにも光明を差しこみ、それによって、望まれし叡智を愛する者が増大した照明・啓蒙をつかみ、望むところを完遂せんために。予があまりに明け透けに語るので、今後現れると危惧される邪な者についての責任を課すべきだと思う者も多いが、そういうものには安心させ保証しよう、愚鈍なものどもには、彼らがそのなかに求めるものを見出すにあたっては、それは充分に困難なことなのである。と同時に、選ばれし者にとって主題は明白なるものとなるのだ。されば謹聴せよ、汝、真理の追究者よ、予の言葉によりてそなたは真実に至る路を見出さん!
 注視せよ、予は自身の死と再生の後に持って置きたいもの以上のことは書かない。汝、誠実かつ純真に、この短き路に心留めよ、読み進むにしたがって、予の言葉は実直に根拠あるものであって、予の教えは言葉の迷宮によって混乱せらることなし。
 予はすでに、あらゆる事物が三つの精髄――いわば、水銀、硫黄、そして塩基――から構成されることを指摘した。そしてこの点にこそ、真理の何たるかを予は教えたのだ。だが、石は、一、二、三、四、そして五から構成されるということを知れ。五
から――それはいわば、その物質自身の第五元素である。四から、というのは、我々は四元素について学ばねばならないことに由来する。三から、というのは、万物には三つの原則があるからである。二から、というのは、水銀物質が二面性をもつからである。一から、というのは、これが、天地創造の最初の一撃(決断:Fiat)から放射された、万物の始源たる核心(first essence)だからである。
 だが、多くの者は、これらの談論を、由るべきところの当然の理論としては、怪しげなものだと心の中では捉えることだろう。だから予は、まず最初に水銀について、次に硫黄について、そして塩基について、を短く述べることとしよう。これらは、われらが石の構成要素の精髄である。
 まず第一に、知らねばならぬことだが、一般的な水銀は全く役に立たない、だがわれらの水銀は、分離の術によって最良の金属から生産される、純粋、繊細、清明、そして濡れたように輝いて、春のようであり、水晶のように透明で、混じりけの全くないものである。ここから、水あるいは可燃油をつくる。水銀は始源において水であったし、あらゆる賢者らが予の見解と教えに同意するところであるが、この水銀の油のなかには、それ自身の水銀が溶解しており、ここから、件の水が造られたのであり、自身の油によって水銀が沈殿凝結したのである。かくしてわれらは二重の水銀物質を得るのである。だが、そなたが識るべきなのは、《第一の鍵》に記された浄化の後に、予の《第二の鍵》にて説明されたごとくに、金はまずさる特定の水の中に溶解されねばならず、そしてこれは《第四の鍵》で言及されたことであるが、繊細な石灰へと還元されねばならない。次に、この石灰は塩基の霊気によって昇華されねばならず、再び沈殿凝結され、そして波紋反響によって、精妙なる粉末へと還元されねばならない。そうすれば、それ自身の硫黄はより簡単にその物質の中へ入ることができ、そして、同類との強い友愛を得る、彼らは互いの間に驚くべき愛をもっているのである。このように、そなたはふたつの物質をひとつに、そしてこれが賢者の水銀と呼ばれるものであって、だが未だそれは単一の物質であって、これが最初の発酵素なのである。

さて硫黄の話をしよう

 そなた水銀をばよく似た金属に求めよ。浄化すなわち先行する火星による破壊、反射炉処理、いかなる腐食剤も使うこと無く(予の指示する方法は《第三の鍵》に記されている)でもって、物体から金属を引き出す方法を知ったならば、そなたは水銀を、固定される前に用意されるものから出る、それ自身の血液のなかで溶解せねばならない(《第六の鍵》で言及されている)。かくしてそなたは、緑の獅子の血によって、まことの獅子を養育しかつ溶解したことになる。赤い獅子の凝固した血液は、緑の獅子のもつ揮発性の血液からつくられるのである。ゆえに、それらはひとつの性質であって、固定されぬ血液はふたたび揮発性で固定したものとなり、そして固定した血液はかわるがわるに 揮発性のものを溶解する以前のように固定する。だから、それを水銀のすべてが溶解するまで、適度な熱のもとにはぐくめ、そしてそなたは第二の発酵素(固定せざるものによって、固定した硫黄を育成することである)を手にするであろう、あらゆる賢者たちが証言の中で予に賛同するところである。その後、これは霊気の昇華によって血のように赤い葡萄酒のようなものとなり、これが飲用金と呼ばれるものである。

さて、ここからは賢者の塩基についての予の見解を述べよう

 「塩」は、調合され試用されるにしたがって、固定あるいは揮発の効力を発揮する。酒石塩基の霊気は、何らの添加も無く抽出されれば、分離と腐敗によってあらゆる金属を揮発する力を有し、予の実践的な指示が示したように、活発な液体銀をまことの水銀へと溶解するのである。
 酒石塩基はそれ自身、強力な定着材たりうる、とりわけ生石灰の熱が参与することで(強まる)。これらふたつの物質は不揮発性化を促進するに著しく効果的である。
 同様にして、葡萄酒の植物塩基は調合の仕方によって固定も揮発もする。その効能は自然の神秘のひとつ、また哲学者の術の奇跡でもある。葡萄酒を飲んだひとの尿からは、澄んだ塩が採取されるが、それは揮発性で、他の固定した物質を揮発化し、蒸溜器の中で自身とともに飛翔させる。だがその一方で自身は固着しない。他ならぬ葡萄酒を飲んだときに、その尿から得られる塩はあらゆる点で、葡萄酒そのものの澱糟から採取されるものとは異なった資質を持っている。それは人体の内部で化学的な変化を被っており、植物的なものから動物的なものに変成したのである――ちょうどカラスムギや麦藁などを与えられた馬が、そうした植物物質を肥沃なものに変えたり、蜜蜂が花々や薬草の貴重な分泌液から蜜を生成するように。
 これやあれやに起こっている偉大な変成は、組成元素を分離変成する腐敗ということに起因する。
 塩の卑俗な霊気、それは予の最後の宣言に示されたように、指示に従って抽出され、そこに少々の「龍の霊気」が加えられれば、溶解し、揮発化し、容器中で自身とともに金や銀を上昇させる。それはまさに「鷲」と呼ぶに相応しい。龍の霊気(それは石くれだったところで見出される)とともだって、霊気が肉体から遊離するまえに、それは揮発力よりも固着力に於いて力強い。
 こうも言おう、卑俗の塩の霊気は葡萄酒の霊気と結合し、ともどもに蒸留されて、それは酸味を失って甘くなる。この調合された霊気は金を物質上では溶解しないが、調合された金の灰へ注入されれば、それはその赤い色素の精髄を抽出する。これが正しくなされれば、純粋な月の白さを、自身から抽出されたものからの物質の色素へと縮小させる。古い物質はまた、ウェヌスの魅惑的な愛を通じて以前の色素を取り戻すが、それはその血液が、第一に、その起源を抽き出すからである。
 だが注意せよ、同様に、塩の霊気はまた月を破壊し、それを霊気的な精髄へと還元し、予の教えの通りに、そこからは「可飲月」が調合されるであろう。この月の霊気は太陽の霊気の伴侶であるが、それは女性が男性に反応するような仕儀であり、水銀あるいはその油の霊気の交合あるいは結合によって起こる。
 水銀や、硫黄の中に探し求めねばならない色素、そして塩による凝固物のなかに、霊気は隠れている。であれば、そなたは、そのどれもが再び完全なものへと生成しうる三つのものを持つのである。霊気は金の中で、それ自身のしかるべき(proper)油とともに発酵(騒乱)する。硫黄は、最愛なるウェヌスの特性のなかに潤沢に見出される。これがそこから湧出する固定した血液をたきつけ、賢者の塩の霊気が力と堅固さを分与し、酒石の霊気と尿の霊気ともども真の酢をつうじて、驚くべき高潔を得る。酢の霊気は冷たく、石灰の霊気は激しく熱く、そしてかようにこの二つの霊気は相反する性質をもつことが見出されるのである。予はここで賢者の習慣的な方法に従って話してはいない。だが予は、いかに中枢の門が解錠されるかを、これ以上あけすけに語るわけにはいかない。
 餞別に、予はそなたに誠実な言葉を告げよう。汝の原料は金属物質に捜すべし。そこから、水銀を調合せよ。これがそれ自身に適正な硫黄の水銀とともに発酵し、塩によってそれらは凝固する。それらをともに蒸留せよ。比重に従って、すべてを混合せよ。かくして、そなたは、唯一、唯一から湧出した元素の組成物を得るであろう。それを継続的に暖気し、凝固固定せよ。間髪入れずに、それを三度、増加し発酵させよ、予の《鍵》の最後の二つに記した通りである、そしてそなたは対象、そなたの望みの帰結を見出すであろう。ティンクトゥラの使用に関しては、予の《十二番目の鍵》に平明に示されている。

神に感謝しつつ

そなたへの最後の親切として、予は、霊気が憂鬱なるサトゥルヌスや善意のユピテルからも抽出されることを加えることを強制されている。それが甘い油に還元されたとき、我々は、卑俗な液体水銀の活気を剥奪する方法を採る。あるいはそれを堅固に硬化させるが、これもまた予の著述中に陳述されたことである。

跋文

 そなた、かくして素材を得たならば、ただ火の試練についてのみ注意の授けられるを要するのみである。これはわれわれの探索の総体かつ究極である。われらの火は卑俗の火、そしてわれらの炉は卑俗の炉である。予に先んずる者には、われらの火が卑俗の火ではない旨を記述し残した者もあるが、予はそなたに、それはただ、われらの術の神秘を隠蔽する彼らの手段にすぎないと教えておこう。素材は卑俗のものであるし、その処置はもっぱら、そこにさらすべき火の適正な調整を含んでいるのであるから。
 アルコールランプの火は、われらの術には役に立たない。「馬糞」にも利益はなく、過大な対価の払われたものから産まれる類いの熱もそうである。
われわれはたくさんの種類の炉も必要としない。ただ、われらの三重の炉だけが、火の熱の相応な調整をする便宜を提供する。それゆえ、贅沢な炉の多彩さを設けようとして、弁舌を弄する者に従うべきではない。われらの炉は安価で、われらの火は安価で、われらの素材も安価である。そして素材を手にする者はまた火を設える方法も知っており、それはちょうど、穀粒をもつものがパンを焼くべきかまどに欠くことがないのと同じである。この主題については特別な書物を書く必要は無い。熱の適正量を観察する限りは、そなたは間違いようも無く、それは熱と冷の中間領域を保持する。そなたもしこれを発見すれば、秘密を所有した者となり、術を執行しうるし、それゆえに森羅万象の造物主は永遠に讃えられてあるのである。かくあれかし。

 
 
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