エメラルド板  The Emerald Tablet of Hermes Tristmegistus/Tabula smaragdina

以下は、モーセ十戒のごとくにヘルメス神によって、緑玉の一枚板に刻み付けられたといわれる錬金術の原理、伝説である。記述の来歴は、数百年紀をさかのぼる伝説的な碑文であって、原典もエジプト語かギリシア語か、シリアのものにあるのか、判っていない。現代に伝わっている翻訳は、ラテン語によるもの故12世紀の偽書とも考えられ、アタナシウス・キルヒャーは「ライムンドウス・ルルス以前にはなかった」と主張している。

けれども西洋中世は、アラビアの叡智がこぞって流入されてくるヨーロッパ文明の曙である。時代の潮流のなかでラテン語への翻訳の暁をみて、長らく失われていたアリストテレス自然学までもが、アラビアの知識の中に生き残っていたことが確認されるのだ。

「自然」や「原因・元素」「創造の秘密」についての、まさにキリスト教社会を根本から揺さぶりかねない叡智に充ちた著述群が、アラビア世界で600年~800年紀には成立していた。多くを教義(ドグマ)に依っていた中世スコラ学は、アラブの科学的方法を前に観察・経験に目覚め崩壊してゆく一方、聖トマスの指示によるアリストテレスの、ギリシア語からの直接翻訳に、哲学的権威のよりどころを求めることになる。

以上の事はいわば、錬金術的言辞の要約・要諦たるエメラルド板の起源が、ギリシア・インドの哲学、シリアの魔術・占星術、コプトを介したエジプトの知識を総合したアラビアの叡智にあることの証左になるだろう。

しかし、エメラルド板の価値は、その起源が古い処に有るかどうかではない。碑銘の内容、それが数百年紀にわたって術師たちに重要視され、注釈を付されてきたその事実そのものにこそ重要性があるのであって、起源についてあまりに拘泥することはあまり意味のないことに思われる。魔法導師エリファス・レヴィは「存在の単一性と上昇下降両方向における調和の単一性、段階的に比例して進む神の言葉、均衡の不動の法則と普遍的アナロジーの比例的前進、創造者と創造物の関係を計る目安となる理念と神の言葉との関係、有限界のただ一隅を量ることで証明される無限界の必然的数学、これらすべてがエジプトの大いなる秘儀司祭の命題ひとつで表現されている」ものであって、「自然のあらゆる創造行為をまねる方法を説いている」「《エメラルド碑》の名で知られる数行の条文に勝るものも比肩されるものもない」「一頁にまとめられた魔術の総体」とまで言っている。


○文献

部分的に引用されているものの、その全体像がなかなか掴めないと思っていたエメラルド板だが、初心に戻って文献に当たると、けっこう基本的な解説書のなかに全貌が紹介されていた。もと暗し、である。身近なところでは

 クセジュ文庫セルジュ・ユタン『錬金術』(p.62:アルベール・ポワソンの解説書からの引用)

 イメージの博物誌S・K・ド・ロラ『錬金術』(p.13:引用元不明~詳細な解説あり)

の2点がある。ただ序に示したように碑文はきわめて古い時代に起源があるために、そのルーツを探るとアラビア文化圏からだんだんと錬金術の秘法が流入してくる過程が見えるだけに、碑銘に関する書誌学的観点からの翻訳が重要になる。以下、内容をざっと確認するために上記の書からの引用をし、エメラルド板のさまざまな版の流布を確認するためアラビア語、初期ラテンのテクストからの直接訳をいくつか訳出してみることにする。


●セルジュ・ユタン『錬金術』より

こは真実にして偽りなく、確実にしてきわめて真正なり。

唯一なるものの奇蹟の成就にあたりては、下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし。

万物が「一者」より来たり存するがごとく、万物はこの唯一なるものより適応によりて生ぜしなり。

「太陽」」はその父にして「月」はその母、

風はそを己が胎内に宿し、「大地」はその乳母。

万象の「テレーム」(テレスマ=意志)はそこにあり。

その力は「大地」の上に限りなし。

汝は「大地」と「火」を、精妙なるものと粗大なるものを、ゆっくりと巧みに分離すべし。

そは「大地」より「天」へのぼり、たちまちまたくだり、まされるものと劣れるものの力を取り集む。

かくて汝は全世界の栄光を我がものとし、ゆえに暗きものはすべて汝より離れ去らん。

そは万物のうち最強のもの。何となれば、そはあらゆる精妙なるものに打ち勝ち、あらゆる固体に滲透せん。

かくて世界は創造されたるなり。

かくのごときが、ここに指摘されし驚くべき適応の源なり。

かくてわれは、「世界智」の三部分を有するがゆえに、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれたり。

「太陽」の働きにつきてわが述べしことに、欠けたるところなし。


●S・K・ド・ロラ『錬金術』より

上なるものは下なるものと相同じく、下なるものはうえなるものと相同じく、

しかして一なるものの奇蹟を成就すべきこと、そは真であり偽りなく、確実かっ至高に現実である。

そしてすべての物が一なるものを思念することによって実存し、一なるものよりやって来るように、

   すべての物はこの唯一なる物から適応を通じて生み落とされた。

太陽は一なるものの父であり、月はその母である。

風は一なるものをみずからの胎内に孕んでいた。大地はこの一なるものの乳母である。

全世界のあらゆる完全性の父がここにいる。

地中にあって一なるものが姿を変えるとき、その力と能力は完全である。

汝はすべからく大地を火より分かち、粗野なるものより精妙なるものを分かつべし。

   しかもやさしく、絶妙の手練を弄しながら。

一なるものは大地より天空に上昇し、ふたたび大地の懐に舞い降り来り、

   上なる事物と下なる事物の力をともに受けるものなり。

汝はかかる仕方によって全世界の壮麗を獲得するであろう。

そしてそれゆえにすべての闇は汝より立ち去るであろう。

これはあらゆる強者中の強き強者(なる女性)である。

なぜならこのあらゆる強者中の強き強者なる女性はあらゆる精妙なるものに立ち勝り、

   あらゆる固きものを貫き通すからである。

世界はこのように創造されている。

これからして、その手段がここに記されているところの驚くべき適応が生まれくるであろう。

そしてこの意味において、余はヘルメス・トリスメギストス(三倍賢いヘルメス)と称せられるものなり。

   なぜなら余は全世界の哲学の三つの部分を具えおる者なればなり。

余が太陽の働きについて言い来りしことは、これにて終わる。


●ゲーベル・イブン・ハイヤーンによる翻訳

バリナスは言及す、ヘルメスの手によりて板に刻まれたもの、そは斯く語る。

こは疑いなく、真実なり! 必然なり!

上なるものは下なるものより出で来らん、下なるものは上なるものより出で来らん、

     一者の奇蹟はこのように作用す。

まことに一者より万物は来る。

「太陽」はその父、そして「月」はその母。

「大地」はそを胎内に宿し、「風」はそを胎内に育んだ。

「大地」は火となるがゆえに。

偉大なる力によって、精妙なるものから「大地」へと供給せよ。

それは地より天へと昇り、上なるもの下なるものすべてを支配する。

そして我は既に明らかにした、以上の全真意を、我が2册の著作中に。


●アラビア語の他の版(ルシュカの調査による)

以下は、ナブルスの聖職者サジウスが、バリナスの奥義の間の入口に際して書き取らせたものである。

     私が部屋へ入室すると、そこには護符が据えられており、私は黄金玉座についた老人に遭遇した。

     彼は手にエメラルド板を持っていた。そして以下を見よ。古代シリア語で、そこに書かれていた。

これなるは真実の言葉。なんらの疑いも関与し得ない。

かく証言す。下より来たる上、そして上より来たる下、「唯一なるもの」を現出さす奇跡の作業。

そして事物は、ただひとつのしぐさによって、この第一物質より来たり。

     素晴らしきはこの術! これこそは世界の中心でありそれを補完せるもの。

その父は太陽であり、その母は月・・・

風はその体内にかのものをつつみ、大地はかのものをはぐくんだ。

護符の始祖と奇跡の保護者、

それらの力は完全で、それらの輝きは認識される。

大地となる火。

火より大地を分離せよ。

さすれば汝、配慮と賢明によって、粗雑なものより内在するの精妙なるものを見い出すであろう。

そは地上より天界へ立ち昇り、自らが高き光の軌跡を描かんとす。かくして地上に下る。

    しかるに、その内部には、上なるものと下なるものの鬩ぎ合いあり。

光の光が内在するがため、そを前にして闇は消え失せる。

作用の作用。そはあらゆる精妙なるものよりきたり、あらゆる粗雑なものに浸透する。

小宇宙の構造は、大宇宙の構造に起因する。

叡智によって前進せん。

それを熱望するは、叡智への三重の栄誉を与えられしヘルメスである。

そしてこれは、庫に彼が封印した、最後の著述である。


●12世紀ラテン語の作品より

我、洞穴に迷いし時、ザラディの碑銘を授与された。

     それはヘルメスの手ずから書き記され、そこには以下の文言が見い出された:

真実、虚偽なく、正確に、このうえなく確かに。

上なるものは下なるもののごとし、そして、下なるものは上なるもののごとし。

     唯一なるものの驚異を実現するには。

そして万物は唯一なるものの意志により来たるがゆえ、

     かくして森羅万象は唯一絶対のものより力を受け生まれ出た。

「太陽」はその父、「月」はその母。

「風」は子宮にそを孕み、「大地」は乳でそを育む。

そは、全世界の驚くべきすべての被造物の父、その意志=テレスマである。

その動力因は、まったく申し分なく完全無欠である。

もし地へ蒔くならば、

そは火より地を、粗きものより妙なるところを分離せん。

偉大なる受容の力で、そは地上より天界へと立ち上る。

     再びそは地上へと下降し、上なるもの下なるものの活力を取り戻す。

かくして汝、世にも稀なるの栄誉を受けるであろう。

     すべて曖昧なるものは、汝からきえさる。

れは、すべての力の中でもっとも力強い力動因であり、すべて精妙なるものよりきたり、

     すべての固体を貫き通す。

かくして世界は創造された。

これより驚くべき適合は生まるのだ。それがここに指摘されていることだ。

それを書き記したが故に、私はヘルメスと呼ばれる。全世界の三分の一の叡智を持っているからである。

そして私が「太陽」の作用について既に述べたことには欠けたところはない。


●『Aurelium Occultae Philosophorum』Georgio Beatoより

これは真実で、いつわりの目隠よりかけはなれている。

なにごとも下なるものは、上なるものに相似している。

     こういうことを通じて、唯一絶対の現出という奇蹟は獲得され成就する。

一者の熟慮によって万物は唯一絶対より作られ、かつまた、結合によって万物はこの一者から産まれる。

その父は太陽、母は月。

風は子宮にそれを孕み、

     その乳母は大地、すべての完全なるものの母(源)。

その力は補完される。

それが地に乗り入れられるならば

火より地を分離し、原料と過程から潜在する微妙なものを分かつ。慎重に、慎みと叡智によって。

これは地上から空へ上昇し、そして空から地上へまた降りてくる。

     そうして上なるものと下なるものを超越した活力、効力を身に着ける。

この手段で、汝は全世界の栄光を手に入れるであろう。そして汝はすべての影と盲目を退け得るであろう。

それは不屈の精神で、凡てのほかの剛勇と力による勝利を、奪い取るものである。

     それは、すべての繊細なものとあらゆる粗雑で堅いものを貫き通し、征服し得る。

このようにして、世界は創造されたのだ。

そしてそれ故に、その驚異の結合と驚嘆すべき作用、

     これが、これら奇蹟の達成されるであろう方法だからである。

してこれがために、皆は我をヘルメス・トリツメギストスと呼ぶ、

     我が全宇宙の三分の一の叡智と哲学をもつがゆえに。

太陽の作用について述べた我が演説これにて終了。


●アイザック・ニュートン1680

こは真実なり、偽りなしの、確かな、まさに真実。

唯一なるものの奇跡の実現にあたっては、下なるは上なるのごとし、上なるは下なるのごとし。

そして、万物は一者の適合により、一者より来る。

     なんとなれば、万物は適合によってこの一者に起因す。

「太陽」はその父「月」はその母、

「風」はそれを胎内に宿し、「大地」はその乳母である。

全世界の、あらゆる完全性の父(源)は、ここにいる(ある)。

その作用と力は完全である。それが地に転換されれば、

甘美にも偉大なる手腕によって、地より火を、粗雑より精妙をわかつ。

それは地上より天へと昇って再び地へと戻り、優れたもの劣ったものの作用因を身に付ける。

この手段により、汝は全世界の栄光を手に入れるであろう、

      そしてそれが故にこそ、すべての曖昧は汝より去るであろう。

その作用はすべての作用を超越している。

       それゆえ、それはいかなる精妙なるものをも征服し、いかなる堅いものをも貫き通す。

かくして世界は創造された。

これ自身がそうで、また、これが成し遂げるのが、驚くべき適合である。手段と過程はここにある。

我はヘルメス・トリツメギストスと呼ばる、全世界の哲学の三部分を持つからである。

我がかたりし太陽の作用とは、かようなものである。

 
 
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