象徴四 兄と妹をば契らせ、兄妹に愛染の杯を勧めよ。



原初に妻として妹 兄の娶らざりければ

ひとの種は かくも世にこちたくなかりけり 故に

 ひとつ両親よりの族類ふたりを結ぶを 躊躇ふことなかれ

其等の 夫妻となりて 相具し添ひ居らむがため

あまき愛の薬に充ちたる杯より 飲ますべし

めをとの愛は みのりの期待を昇らせようもの


 自然のさだめるところ、天上天下の戒律は、近すぎる血縁の人間の、おやこきょうだい直系傍系、いずれの因も近親に婚姻することを禁じている。それには正当なる道理があるものの、いうまでもなく哲学者らの説く婚姻の母子・父娘・兄妹たちは、いずれも戒律に反して語られ、行われてきたものではない。この主題が示唆しているのは属性についてのことであり、効果の原因なのである。哲学者らの語るものたちは、アダムの息娘とひとしく安らかなるものであって、いかなる罪咎もなく近親にて婚姻を結ぶのである。そこにある主たる道理とはおそらく、かつて親近性と親和力が人間種をかたくつなぎとめ、敵意を向け合ったり族党では裂かれたりはしなかったということによるのであろう。だから、何人たりともアダムの息娘を妨げはせず、兄妹すらも婚姻しては結びつき、人類はそれじしん単独で、じしんの両親のあいだでのみ存続してきたのであって、それゆえ、彼らの血が繋がっていても、婚姻関係にて結ばれることとなったのである。
 さて、ひとの数は増えにふえ、家族が数多にひろがると、「なぜに兄弟姉妹は結婚すべきでないのか」その正しき誠の原理はみいだされていった。哲学者らには、これとは異なる道理がある。「なぜに兄が妹を結婚すべきなのか」それは物質の類似性について云うことであって類はその類と結合するものなのである。この属類には種にひとしくも性にことなる二者が存在する。ひとつは兄であり、もうひとつは妹である。人類始祖の血縁とおなじ境遇下にあって、まったく自由なこれらは、いかにも法に適っており、むしろ避けられない宿命のもとに、互いに夫婦関係へと結合されるべきものである。
 兄は熱く乾いて、それゆえきわめて激的である。妹は冷たく湿り、内におおくの冷静なる素を秘める。ふたつの資性には、かような質の相違があるが、それらこそが愛のもとに、はかばかしく手を取り合って子孫の繁殖をもたらす。硬すぎる鋼と鋼でも、脆すぎる火打石と火打石でも、火を打つのは困難である。しかし硬さと脆さ、すなわち鋼と火打石ならばうまくいく。だから、灼熱の雄と熱烈な雌だったり、またはともに冷めていたり(冷は男性の実りなきことである)の取合せでは、活発な子孫は産まれないのである。*レヴィナス・レムニウスも著書『自然の隠された奇跡』にて断言している。彼は熱くなければならず、彼女は彼よりも冷たくなければならず、人間種の性質においてまっとうな男性であれば、最も熱い女性ですら最も冷たい男性より冷たいのである。かくして妹と兄は、哲学者によってただしく結合される。
 雌鶏、雌犬あるいは雌羊などの動物から次代の子を望むならば、雄鶏、雄犬あるいは牡羊にそれを結ぶべきであろう。いずれの動物であれ、種は同種と結ばれ、そのようにして彼の者は結果を手に入れる。育成者はこれら家畜を血縁などとは考えず、各々の寛大さ、すなわち資性の合意とみなすのである。おなじことが樹木の体についてもいえるのは、切端が継ぎ木できるからである。なにより金属界の資性では、物質は類似あるいは均一であって、なにものであれ繋がるべきときにはその同類を望む。しかし婚姻した兄妹といえども、自身の愛だけでは、子沢山にはなれず永く持続することもない。彼らには媚薬として愛の杯(フィロテシウム)が飲まされねばならぬ。こうして彼らのこころは静まり繋がって酩酊状態となり、*ロトの場合のようにあらゆる羞恥が除かれて彼らは結合し、不法かつ合法の子孫をみのらせる。
 人類が医薬から多大な恩恵を授かっておることを無視できる者があろうか。医薬によってかれら両親の不妊の因果が排除され、母体が中絶から守られねば、いま存在しえなかった人間たちが、世には大勢いるのである。それゆえ愛の杯(フィロテシウム)が新婚の夫婦に与えられるのは、以下の三つの理由による。愛情を堅固にすること、不妊を除去すること、流産を防ぐこと。

 
 
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