象徴四二 自然と理力と経験そして読解は、化学の求道者にとりての教導、杖、眼鏡そして灯火とならむ。



自然は汝の教導とならむ 意欲もて間近にありて其に従へ

汝の途に其を伴侶とせずば 汝あやまつべし

理力は汝の杖とならむ かつ経験は汝が眺望を強めむ

此の故に遠かりしものも其れとわかつものとなりぬべし

読みに読みては其を灯明とすべし 此れ闇夜に輝かむ

こととことばの重責より汝を守らむ


 旅人には数えきれぬ不測の出来事がつきものである。足元をすくわれがちな危うい夜道をゆくとなれば尚更のことである。壮健なる肉体が必要となるは言うに及ばぬことだが、こうした際にきわめて注意深く留意すべきことが四項ほど挙げられる。まず第一には熟練した案内者としての仲間である。無知が無知を導けばそれに降り掛かる災厄は盲目のそれに同じくしてともどもは溝に嵌ってもろともに誤謬に陥り、難局に至ることであろう。次に杖があれば道に滑ろうとも救われるよう備えることができる。第三にはよき眼であって、目利なくば路は隠されその危険は闇を進むにひとしい。第四に道を照らす灯火があれば、少なからず障害を避け得る。肉体の頑強さと、そして充分な費用を除けば、みずからを《哲学の医薬》の探索に捧げる者には以上四項が欠かせず、言い換えればこれらは《自然(みちびき)》《理力(つえ)》《経験(めきき)》そして《読解(あかり)》である。これらは何れが欠けても進まぬ《哲学の馬車の四車輪》であり、ひとつ欠ければ他三つは全く役に立たないのである。

 《自然》は物体や気体をもたらし、人為の働きかけるいわば素材物質として提供している。諸技術はこれを調合したり精錬したりすることで最終的に目指すところを実現している。陶工は泥土と水分を、硝子工は灰と砂を、鍛治師は鉄、真鍮、鉛、錫、銅、銀そして金を、革職人は牛生皮を、あらゆる技芸家はそうした素材を《自然》から得てはこれを用いるのである。化学者もまた《自然》の与えたものへと傾注する。かなり古い時代から賢者らに知られていたその素材はしかし、いざ作業の開始となると、術師が全生涯を通じても識ることのかなわないものでもある。《自然》はその素材をはっきりと指差し明かしているのであるが、多くの妨げがこれを覆い隠しておりそれと判らぬようになっている。それゆえ最初に肝要なのは心を徹して《自然》を観照することであり、《自然》の営為が運ばれるさまを聢と見定めねばならぬ。そうしてこそ欠けても過ぎてもいない作業のための化学の素材を《自然》は術師に手渡すであろう。かくも偉大なる旅における汝の導き手として《自然》を連れとしその足取りに注意深く従うべきである。

 そして《理力》をば杖となすべきである。杖は滑りや動揺から歩みを安定堅牢に保つものであり、この《理力》による考究なくば、いかなる者も誤謬に陥る可能性を否めない。それゆえにこそ古より賢者は「耳に入るすべてに意を凝らせよ、斯く在るべきや否やをば熟考すべし」というのである。憶えも弱く才覚も足らぬ者や、誤謬を真実に見紛い、あるいは真実を誤謬とするなどして莫迦げた妄想に陥る者でなければ、かなうはずもない不可能に信を置いて努めるよう強いられる者などは必要ない。語られる言説などにこだわらず、むしろそれと理解さるべき事象をこそ注視すべきであるということを賢者は伝えている。事象が言説に従うのではなく、事象のために言説があるということである。かりに《哲学の染色素(ティンクトゥラ)》が硝子を柔化させ得るかと問う者があっても、そこに受け入れうる事実さえあるならば、それと信じぬことがあろうか。

 第三に《経験》は遠方を見通す眼鏡となるであろう。眼鏡は発明されて高度な技術で造られた光学的器具であり、視力の弱さを補助修正するものである。鉱物物質に試みられる実験は、耳にとどくものから眼にみえるものまで、眼鏡の機能とまったくの等価である。経験が深く記憶されれて残るほどに、真実と虚偽の識別のための根拠ある熟慮が相互の対照を可能にする。

 第四に《読解》はいわば明るい灯火で理解を照らし、それなくしては辺りは闇と薄雲に包まれるばかりである。しかしながら、良き著述は繰り返し読まれることでのみ有益なものとなる。『賢者の一群』にてケナー・バカサーの曰くには「遺憾なき堅忍不抜の勤行の者は斯術の路のただしきをゆくであらふ。然し我らが書物より性急に益を刈らむとはかる者は欺かれ、左様な者は覗くも触るるもせぬが身の為」

 
 
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