象徴三六 石は地にすてられ、山にあげられ、風にすまい、水にやしなはるは水銀なり。



卑しきものとて忌避さる石は 路傍に彷徨うものと云ふ

富める貧しきを問はず ひとの掌に安きもの

其は大気の高みにそびえる峻厳の頂きに在りとも云ふ

河の流れにやしなはるとも云はる

すべてはをのが義のもと真なるが 余は斯く指南せむ

さやふに偉大なる賜物は 険しき山岳の地にもとむるべし


 《石》について知り、その力を耳にした者は皆――徹頭徹尾うたがっているのでなければ――それが一体どこでみつかるものなのかとすぐに訪ねてくる、それほどに人を駆り立てるものなのである。こうした問いに哲学者は二つの返答を用意している。まず、かつてアダムが楽園から持ち出し、いまは汝も我も誰もがもっているものであり、旅の放浪者が遠方の異国から持って来る、というのがひとつである。もうひとつは、地にも山にも風にも水にもどこにも存するが、さて何処から捜したものだろうか、その何処にも求めゆくが望ましかろうが、まあ、予のかんがえでは、それぞれには異なった方法があるので、まずは河にでも求めるが易く危険も少なかろう。等々。

 《石が地に捨てられる》というがこれは、なによりまず《地》の元素が物質に漆黒の様相を発現させるためである。卑賤かつ無価値であることを意味し、ひどく汚れて旅人の行路上で踏みしだかれるに甘んじているのである。これに関して『哲学者の薔薇園』には「予はその性質に応じてそれにふさわしき名で呼ぶが、愚者にはそれと判るものではあるまい」と記されているし、*カリドゥスへの答えにモリエヌスも以下のように言っている。「それが確かにみつかるのは何処なのですか」「貧しき者にも富める者にも、寛大な者にも強慾な者にも、ゆく者にもとどまる者にも、ひとしく石はそなわっていると賢者はいう。それは路傍に捨てられて掃溜に踏みにじられ、多くの者たちがそれを汚物のなかから掘り出そうとしたのではあるが、その期待は失望に変わったのである」同じように『賢者の一群』のムンドゥスはこう言う。「商人どもが石をそれと判っていたら、あれほど低き価では売らぬであろうよ」さらにアルノーは、石は大量にあってしかも無償、その所有者を問う必要もなしに誰でもが望むまま自分のものにできる、としている。いったいに如何な吝嗇とはいえ土やら水などを所望されそのごときを拒むことがあろうか、以上の賢者らの言葉はすべて真である。

 歴史の伝えるところによれば、ローマから土地と河川の権利を拒まれた古代*キンブリー人は大軍を率いてイタリア領に侵入し、執政官もろとも夥しい数のローマ人を虐殺したという。万物の太母としての《地》はそれじたい極めて尊いものなのであるが、万象のゆきつく腐敗という卑しき果ては、なににもまして価値ひくき泥土であり汚物である、またそれは《水》と混合した《地》に他ならない。いったい大地の土壌よりもありふれたものがあろうか。けれどもアルゴノートの英雄たちはネプチューンの息子エウリピデスからまさにこうしたものを贈呈され、拒むことなく恭しく受け入れたのである。メデイアはそれを水に溶かし多くの佳事を予言した。《地》は《水》に溶かされる必要があり、さもなくばどちらも真価を発揮することはない。

 かような仕儀で《石が地に捨てられる》のであるが、それにもかかわらず、それは零落された状況にとどまることなく山――アトスやヴェスヴィオやエトナ等々の、世界中のあちこちに見受けられる火山――へと《あげられ》称揚されるのである。これらの中では絶えることのない炎が燃えており、それが石を浄化昇華していとも高潔で威厳あるものにかえる。その未熟な様相――硫黄と水銀から――は山のなかで成育するに従って、仕上げられ円熟がもたらされる。こうした山の頂上に生える薬草には湿性と冷性という《火に反する性質》があり、これによって火の熱気が調整されているのである。そして《それ》は山から《風》気中を通過し、そこで住処を見出して《すまう》のである。《風》は石を包み込む家であり、石は《風》の胎内に孕まれる、すなわち《風》に生まれることに他ならない。かような表現については既に説明した。

 最後に《石は水にやしなわれ》るというが、これは水銀が水に滋養されるということであり、これについての古代アテネ人たちの節義はさる祭儀に現れている、すなわち*ヒュドロポリア祭である。『哲学者の薔薇園』では《哲学の石》の構成物質は水なのであり《三》種の水がこの解釈をたすける。《水銀》は三つ首をもつともいわれるが、海洋と天界と大地に由来するものだからである。水銀は《水》に《風》に《地》に存在する。

 メルクリウスはウルカヌスから盗みを教わるが、これは《水銀》が火に馴化する術を身につけることに由来し、混合したものをなんでも攫ってゆく揮発性を意味する。また、メルクリウスはエジプト人に法と学問をもたらし、古くよりテーベの司祭たちはもとより世界中の大部分の宗教を確立した契機である。エジプト人は化学の技芸から政治と祭式を発展させ、ギリシア人がこれを継承し、その後ローマに伝わって世界中に広く伝播した。さらに、メルクリウスは岩石の欠片で*アルゴスを退治し、バットゥスを試金石に変える。これ以上の贅言は不要であろう、あらゆる化学の巻は《水銀(メルクリウス)》に関する反復にすぎず、その効能はただひとつの詞のなかに充分に確かめ得る。「賢者ノ求ムルハ其レ水銀ノ中ニ在リ」メルクリウスは化学の神々に仕えてあちらこちらと彷徨うので、《水銀》を見出すには《風・火・水・地》その何処にもこれを捜さねばならぬ。彼は神々の従僕であってそれに相応する仕事を遂行するべく命じられた者であり、これをアングリアという娘として描出する者もある。

 
 
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