象徴二五 ソルとルナたる兄妹を措いて 龍を根絶さすことかなわぬ。



龍を殺むは 斯術にやすきことでなし

もはや地を這わぬよう ふたたび生き返らぬよう

兄妹はともだちて棍棒に其の頭くだく

龍の血族たる者を措いてこれを能く打ち倒す者あらず

兄フォボス 妹シンシア

ピュトンは兄に オリオンは妹に調伏さるもの


 金羊毛皮の獲得には、とりもなおさず龍が討伐されねばならなかった。その困難には多くの者たちが身を投じたのであるが、恐るべき毒の弊によりことごとくが殉じ、すべては徒労に終わった。龍の毒に抗すべき充分なそなえを怠り、龍をいかに打ち倒すかの策を講じなかったことが敗因である。だが、我らが先達としてのイアソンは、腹心の顧問、すなわちこの勇者の熟慮の精神を司ったメデイアに導かれ、いかなる治療策をも怠ることなく、かまえは万端であった。そこにはソルとルナへの観想があり、その完璧な実践が金羊毛皮獲得という勝利をイアソンにもたらした。ゆえに、賢者らが幾度も注意を促すがごとく、龍はソルとルナあるいはそれらの象徴するものによってこそ退治されるのである。
 『哲学者の薔薇園』に引かれたヘルメスの言説に「龍を殺すもの、兄妹を措いて他になし。兄のみ妹のみではかなわぬが兄妹のともどもこそが打ち倒す。これいはば太陽と月なり」というものがあり、これは、《妹》と相共にならねば殺せない《哲学の水銀》を殺すこと、すなわち太陽(ソル)と月(ルナ)によって凝固さす必要について説いている。組成塊から抽出された《活ける水銀》について留意すべきは、これが肉体と魂と霊をそなえているというところであり、この《龍》は、月の影響のもとに湿性と冷性をもつ精製された硫黄――兄妹すなわち太陽と月――によってこそ《殺される》つまり組成塊から抽出されるのである。これが腐敗、諸元素の分離の後にあらわれる《活ける水銀》《哲学者の永遠の水》であって《悪臭の水(アクア・フォエティダ)》とも呼ばれる。他の賢者らの記述も凡てこれらに同意するところであるので、諸々を引き合いに出す必要はなかろう。
 エペイロスの民はアポロン神殿にて蛇龍を崇拝し、殺されたピュトンを鎮魂する。また、自然は*蛇龍と象のあいだに永遠のたたかいを定め、蛇龍は象が地に倒れ伏すまで眼をふさぎ首をしめつけるが、同時にその重さによってつぶされ、こうして流れ出した龍の血液が、人間の体内に注入された際の効力に言及する者も多い。龍の眼には宝石に等しい価値があり、その視力は鋭く透徹しているので、龍はヘスペリデスの園やコルキスの金羊毛皮などの宝物の守衛として据えられてきた。
 けれども化学者は《龍》を実在のものとして論じているのではなく、専ら寓意的なものとして自らの術の過程のなかに位置づけている。そこでは《龍》といえば凝固の状態にあっても揮発していても、かならず水銀を意味するのである。そういうわけでメルクリウスはそのカドゥケウスの杖に二匹の蛇龍――龍というものは巨大な蛇でもある――を巻き付かせているし、サトゥルヌスもまた己の尻尾を喰らう蛇龍と同一視されており、これはヤヌスの場合にもあてはまる。アポロンの息子であり哲学的医術の創始者でもあるアスクレピオスにも蛇龍が捧げられており、この医神は蛇の姿形でエピダウロスからローマへと運ばれ、それが功を奏して疫病が駆逐されたために崇拝されたという伝説も残る。
 哲学者の《龍》はいつも極めて慎重かつ活発である。そして重厚な皮膚や鋭い牙、毒という武装のゆえに傷を負わせることすら容易にならない。卑俗の龍は毒を持たぬというが、我らの《龍》は扱いに細心の注意を払わねば、いかなる者に対してもその毒素を発散する。強いて拉ぐことは殆どかなわないので、類を同じくするものを加えてたくみに懐柔することが望ましい。友愛の名のもとに欺くのが安全かつありうべき方法、といった詩人たちの評はまことに要を得ているわけだが、この、安全で慣例的な方法の裏に秘められた背徳的なものは、医薬の術に携わる場合、他の多くとは一線を画している。香具師めいた民間療士たちですら寄生虫を散薬にしたものによって子供から寄生虫を駆除するようだが、これもいわば類を類によって殺すという例である。我々の《龍》も兄妹――ソルとルナ――によって殺されるわけだが、この《龍》はメルクリウスという惑星のひとつの様相を秘めつつも、『薔薇園』の引用にみたごとくに、物体から抽出される水銀なのである。
 ユダヤのヘロデ王の治世下、婚前の美しい少女に恋した龍がこれとともに褥に横たわったとか、皇帝ティベリウスが手ずから龍に餌をやるのを悦んだなどというギリシアの伝説もある。哲学の《龍》もまた、適正に手懐けるならば獰猛さをおさめ、ひとにも籠絡しうるのであるが、扱いを誤れば危険きわまりないものでもある。歴史家クサントスはプリニウスと同様に、親に殺された若い龍はバランという薬草の力で生命を取り戻すと述べているが、これは歴史の真実によりも哲学的な寓意へと帰する我々の解釈に反しており、なんとなればただ化学の過程のなかでだけ、生きた龍に死はふりかかり、死者に生命は戻るというかわるがわるの変換が可能なのである。
 この《龍》はどこで捕らえうるのであろうか。賢者らは「レビスと地泉に山、龍を与へたり」とその答えを説いている。《龍》の居所をつきとめるに、*タキトゥスもまた同様のことを述べている。「いかなる注意と精励のもとに多くの者が、アフリカにみられティベリウスに運ばれし、いとも偉大なる龍を手に入れるのを目前にしたか」路を囲んで狭く押し込め、帯や網を用いて閉じ込め、棍棒や鞭で飼い馴らし、数えきれぬ車輌を補助として運搬し、ついには船に運ばれて、《龍》はローマへともたらされたのである。賢者たちが見出した、《石》へと至るその伝統の行程もまた斯様なものであったことであろう。

 
 
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