象徴一九 四者のうちの一者を殺めよ、さすれば忽ちみな果つる。



二組の二兄弟ずらりと並び

ひとりは其の掌に地の塊を帯びふたりめは水を持て参る

残るは風と火を携ふなり

汝 其等をば滅ぼさむとせば 一者をこそ倒すべき

なんとなれば自然の与へし互ひの絆の其等を結ぶゆゑに


 詩人の伝えるところでは、スペイン王*ゲリュオンには三つの身体があり、さらには双頭の犬と七首の龍に守られた紫色の雄牛を飼っているという。ゲリュオンはメデューサの血を継ぐ*クリューサーオールの子ともいわれるが、それは*テュポンや*エキドナの血潮からうまれた龍にも等しい。こうしたことはとても歴史的な事実とはしがたいが、しかし化学的な寓意にはただしく調和するところである。我々は、そのようなものを特定の物質へと加えることで、しかるべき首頭に変換するということをこの寓意から読み取るのである。ヘルメスの思慮に従えば、ゲリュオンの三重の身体から我々が理解するのは、ひとりの父の背後に存する三つの面貌(象徴四九参照)である。ここに四つの面貌をみてとる者もあるが、これは四元素にちなんでおり、なんとなれば四辺形からは三角形が成立せねばならず、それはまた四辺形が円から生じることと同じであり、すなわち三角形は円となるべきなのである(象徴二一参照)。このようにゲリュオンの身体、あるいは諸元素は、強力な性質結合の同属性によって、ひとつが征圧されれば残りもまた、なんら手を下すこともなくみずから死ぬこととなり、これが《腐敗》の起因となる。
 ふたつの身体を持つ双生児については、片方が死ねば他方もまた衰弱してしまうことが既に知られている。我々の知るところでは、イタリアにふたつの身体を持つ四才の少年がおり、片方の頭が他方の身体の背後に隠れる有様で、ちょうど臍にところで癒着してぶら下がり、小さいほうは殆ど運ばれているような具合である。小さいほうの手足を常時よりも圧迫すれば大きいほうは苦痛を感じる。そして飢えもまた同様であって、食物不足で空腹を感じるのは後者である。ここには自然の連合と調和があり、同じひとつの身体、あるいは他と繋がって生まれた身体の部分と要素が、互いに動き協力して影響しあい、かくして一方が十全であろうとも、他方が同程度にとどまるべき必要はないものの、しかし片方がひどく傷つくことがあれば、もう片方もまたこれに共鳴し、同様の弊害によってひどく苦しむこととなるのである。これは、隣人がありあまる金品を得ようが、そのことで当人にはなんの利益も生じることはなく、しかし火災の損害で苦しめば、その隣人もまた大きな損害を被るようなものであって、其方が危機に直面するときには隣家もまた火を受けるに同じことなのである。かような双生兄弟の片方の死が、他方の滅失を生起させるのは、決して真実にさからうところのものではないのである。これはいろいろな仕儀の所以に起こることでもある。双生児が一組の父母から同時に生まれ起源を同じくする所以であり、それゆえにこそ兄弟はその死をすら共通のものとするのである。既に述べたごとく、あるいは星辰の傾向を、あるいはただ魂のみならず肉体の絆が繋がっていることを、あるいは疫病時代の悪夢のような精神の衝撃を、あるいは同盟連帯を所以として、かようなことが実際のこととして、或る者たちには起こっているのである。
 インド諸島、ムガール大帝の統治領には、或る異教徒たちの間に、ピタゴラス学派の名のもとで古代からつづく習慣がみられる。夫に先立たれた妻はこれとともに火に燃やされるか、さもなくば永久の不名誉を被って万人から追放されて生き続けることとなり、これはもはや死んだ女と看做される。夫とともに死ぬ決断をしない妻には、毒殺の嫌疑がかけられるゆえに、かようなことが制定されたのである。
 哲学の術においても、兄弟のひとりさえ死ねば火によって他もまた滅びるが、それは強いられてではなくみずから望んでそうなるのである。それらは不名誉と悲しみのさなかには、もはや生き残るすべをも失うというわけである。というよりも、誰かが石礫やら棍棒やら剣やらで脅かされる場合には、それは同胞に向けて内戦をはじめるのである。それは、地に蒔かれた龍の歯から生じてイアソンに立ち向かったり、別の場合にはカドモスに抗った巨人たち(スパルトイ)のようなものである。このような場合、すべては互いに連鎖的に打ち負かされてゆく。たとえば《風》の保持者に触るか傷つけるかすれば、隣り合う二者すなわち《水》の保持者と《火》の保持者へと向き直る。さらに、これら二者は《地》の保持者を攻撃し、かつ最初の攻撃者たる《風》の保持者をも攻撃し、こうして死に至る連鎖的な傷を被る。兄弟が互いに愛しあうならば、互いへの愛は増しに増して熱烈なものになるが、ひとたび兄弟の愛情が憎悪に変われば、この憎しみは、互いを殺すまで獰猛に荒れ狂い、死をおいて他にそれをなだめうるものはないのである。このことは、甘い蜂蜜であろうとも温かすぎる胃のなかや病気の肝臓のなかではひどく苦い胆汁へと変わってしまうことに比することができよう。
 活けるものを殺すべし、なれど其を蘇生しうる仕儀にてことをなせ、さもなくばその死は、なんらの役にも立たないものになってしまうのである。……死は其者の正体をあきらかにするであろうが、しかしひとたび其者が生き返れば、死と闇と、そして海潮がそこより流れ出す。……*『黄金論説』三章九節におけるヘルメスの言説は、冥府を守護する龍は太陽光を避け、そして我らの息子は生き、死んだ王は火のなかから出てくる(象徴二四)と語る。『哲学者の薔薇園』にてバリナスは、同様のことを寓話に語っている。「そなたが余の性の一部からとり、余の妻の性からもとれば、そのことが起きる。そなた、これらの性をば殺さねばならぬ、かくしてわれらはあたらしく霊的な復活をとげて生き返り、その後、我らはもはや決して死ぬことがない」

 
 
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