象徴一〇 火には火を、水銀には水銀を与へよ、為すべきは其のみ。



まったき世界の造成(マキナ・ムンディ)は

互ひに繋ぎ留められ連鎖に依りてあり

万物は をのれ類する内に在りてこれを悦ぶもの

水銀と水銀 火と火 かく結び合ふ

此れ 汝が術にとりての至上命題とならむ

ウルカヌスは有翼のヘルメスを鼓舞し

月なるシンシアを蕩かせども妹は太陽たるのアポロンを挫くなり


 この象徴をただ字義通りに捉えるのであれば、火と水銀はただ量的な増加をみるだけのことであり、なんら新しい質的変化はもたらされない。類おなじくするものを加えられた類は、ただその性質をより強めるばかりである。こうしたことから、疾患を鎮めようとする医師らは、基本的には対立するものをあてがう治療を提唱する。火は水によって絶やされ、火の追加によって助勢されるのは周知のことであるが、これがさる詩人に「葡萄酒のなかのウェヌス、火のなかの火のように猛々しい」と言わしめた。しかし《火》から《火》あるいは《水銀》から《水銀》のあいだにはかなりの違いがあるのだ。つまり、哲学者らにとっては《火》にも《水銀》にも、別個の異種が存するのである。さらには、状況的な差異があるだけ熱気や冷気もこれに同じく個々に違った種別があり、自身の同類を誘引する。
 身体の何処であれ火傷を負った部位からは、そこに固着した熱を類おなじくする熱によって引き出しうることがよく知られている。また、冷水や氷結で壊死しかけた凍傷の手足は、つめたい水に浸すことで回復させられる。こうした場合には外部から熱をあてがうよりも、むしろ冷やした方が効果がある。おなじ光ながら、強い光が弱い光をくもらせるのと同じで、たかい熱やひどい冷気には、より弱いそれをしのぐ力がある。だから、施すべき処置の熱気や冷気も、身体に残留癒着したよりも弱いものでなくてはならないのである。さもなくば類は、類によって、むしろ強力に誘引されることになり、おなじ疾患をさらに悪化させることになりかねない。
 冷水によって冷気を、あるいは熱によって激しい熱気を抽出するのは、自然の理にかなっており、対立物を急激に変化させるのは、いかなる場合に於いても賛同しかねる危険な行為であるが、段階を経て次第に処置されるならば、造作もなく耐えうるのである。ここに我々が示唆することは、哲学の物質のなかに本質的に内在する《火》が存在して、外部から別の《火》が作用されるべきである、ということである。おなじことが《水銀》についてもあてはまる。内在する《火》は両義的に、極度の冷気でもあって、それはその激しい特質、特徴、作用のためにそう言われる。しかし外的な《火》は単一的である。外的な《火》《水銀》が内的な《火》《水銀》に与えられねばならず、そのようにしてこそ、作業の趣旨は貫徹される。煮沸には火も水も使われ、かくして硬く粗い物質は軟化される。この際、水は浸透して収縮した部位を溶解し、そこへ熱気が動力を加える。これは粥を煮るときにもおなじことであって、はじめ固形であった具材が水のなかでよくくずされて細かくなる。火の熱気は迸り、水を希薄化し、これをほとんど気状の物質へと変え、未消化の果物や肉を水のなかへと分解してゆき、それらを水とともに気中へ散逸させる。
 同然の仕儀のもとに、ここでいう《火》《水銀》はまさに《火》《水銀》であり、同様の《火》《水銀》は完全かつ天然の成分であり、その天然性は煮沸によって完全化される。すなわち、水の助力を得て余剰物から清められて完全化するということである。けれどもこれをより端的に論証すると、これらふたつの《火》これらふたつの《水銀》は原則的には単独で術の完成に必要なのである。*エンペドクレスは、万物の根源が《友愛》と《不和》であると説いている。敵対関係から生じる腐敗状態は《愛》によって造成されてゆくのである。ここに言われる《不和》は《火》と《水》の相対関係に顕著であって、《火》は《水》を気化させるし《水》は《火》を消すものである。
 しかし、この《不和》の過程から《友愛》が生じることも実に平明なことである。火の熱気は水のなかから《風》を造成し、そして水は硬化して「石」を産む。最初の元素としてのこれら二者《火》《水》からさらに他の二者《風》「石《地》」がつづき、そこから万物の造成がなされゆくのである。だから《水》は、天界とあらゆる地上的肉体の根源となる。《火》は動因を形成するものであってこの根源たる《水》に吹き込む。《水》あるいは《水銀》は質料として形をむすび《火》あるいは《硫黄》は形相として作用する。これら二者は分離・凝固・改変・染色・完成の過程のなかで相互にせめぎ合い、おのれのありようを揺るがせるが、ここには外的な助力が必要となる。火と槌なしに鍛治師は働けないことと同じく、道具がなければ、なんらの効果を継続させることはかなわない。哲学者らもまた、その道具たる《水》と《火》なしには術を行うことができないのである。
 この水は《雲々の水》と、この火は《誘引の火》とも呼ばれる。《雲々の水》と呼ばれるのは、これが五月の露のごとく滴るものであって、きわめて微細な要素からできているからなのは間違いない。卵の殻のなかに封じられた五月の露は、太陽の熱をうけて立ち上がるとも言われている。この《雲々の水》あるいは《露》は《哲学者の卵》を鼓舞し崇高なものへと変えて、遂には完全化を実現する。さらにその水はきわめて鋭い《酸酢》でもあり、これには肉体を純粋希薄な霊気へと変換する力がある。《酸酢》には異なる資質が秘められていて、これは物質の深奥まで浸透したり、また結び付けたりもする。ゆえにこの水は溶解もできるし、凝固もするのであるが、それ自身は凝固せらるることはない。厳密には実体を持つものではないからである。水とは、パルナッソス山の源泉から汲まれるもので、それは他の泉の性質とは逆に、はばたく馬ペガサスの蹄に踏み付けられて、丘の頂上からほとばしるのである。
 さらに、加減を厳重に制御され限定されねばならぬ、或る火が不可欠である。白羊宮から獅子宮へとすすむ太陽のように、近付けば近付くほどにこれは、次第に熱を増して事物を生長させるのである。哲学の仕事にも火は不可欠であり、それによって《哲学の子供》は火に乳(水)に滋養され、それが豊富であるほどよく育つのである。

 
 
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