象徴三一 海原に独り泳ぐ王は助けを求めて声高に叫ぶ「余を救う者に数多の報酬を与へむ」



海原に溺れる王、声高に救ひを求む

余を救ふものをば、たぶやかに勧賞せむと

かうべ重く戴冠されしその王は

広漠たる海洋を泳ぎさまよひて騒ぎののしる

なぜに汝 我を救いに来ぬか なぜに汝 急くことのなからむや

汝 余が幸福にも至らしめむことのできよう者よ

余がこの水より救われし後 汝賢き者ならば

余を我が王国へと連れ戻せよ かくして

もはや貧困も病苦も 汝を責むことはなし


 古代よりあらゆる教育の基本は、水泳の鍛錬と文芸の習得であった。泳げないことや文字を読めぬことは無教養を表わすこととなったのもこれに由来する。水の危険から水泳が人間を救うことは十全に証されたことであり、文芸への熟達もまたあらゆる運命の波を泳ぎきる人の意思となるのである、そのように古代人たちは考えてきた。水泳は戦において兵士の命を救い、文芸の学問は平和な治世にいきる者のよき助けとなる。動物には武器や防衛の能力が生まれつき備わっており、それと同じように水泳の能力も自然から授かって生まれる。しかし人間はそうではない、ちょうど、ある者が武器を考案して他の者がそれを使用するといったように、せまりくる驚異に用いるべき才覚と手腕が人間には与えられているのみである。しばしば子供ですら水から脱出できることもあれば、強壮な人物でも溺れるようなこともあるので、生命を守るために人間は敢えて水泳を訓練する必要がある。生来の不充分というものはこのように、技術的に補完されねばならない。

 貴族や王族たちは、いざというときにためにこうした教練を臣下のものどもに習得させていたが、いかに高貴な血族の者といえども運命的な不慮を前にしては他の人間と等しく、決してこれらから免除されるべくもなく、かような危難に晒されたままなのである。*ディオニュシオスが水泳も文芸も学んでいなければ、そのシチリアから暴君として追放された折、コリント湾で難破したまま海の藻屑と消えていたことであろう、王はコリントスに至って学院を営むことも、少年らを導いて人道の学問を教授することもなかったであろう。笏を杖にもちかえ、王から指導者に変じた王を諺として「コリントスのディオニュシオス」というが、これと同じように哲学者らの《王子》もまた泳げなければならないのである。さもなければ、その声を聞き届けこれを助ける者は現れず、《王子》はただ水に溺れ続けるしかないのである。それゆえ水泳は、あらゆる身分を超えて人間の必要となる有益なものであると言える。たとえ大洋のうねりの彼方から、ただちに救いの者が到着するは叶わぬとしても、水泳によって他者に救われるまでの時間を生き存えるのである。

 我々の関心の中心にある《王》もまた、自身かなり長いこと泳ぎ浮かぶことができる。ところが海は波つよく、ひじょうに広大であって《王》は我々から遠く隔たっているので、《王》がその叫びを繰り返すもなかなかにそれを見聞きする者は現れない。荒波に脅かされる《王》には取り付く岩や暗礁があるにはあるが、一体これはいかなる《海》なのだろうか。かような海は北回帰線下の*紅海(エリュトライ)であると答えうる。こうした海の底には磁石が豊富に沈んでおり、その磁力は鉄を満載した船舶をいとも簡単に水中へ引きずり込んでしまうという危険な海域なのである。《王》はこうしたことを知らず、船が沈没した際には他の者も溺れ死に、ただ《王》ひとりがみずからの泳ぎに助けられたというわけである。《王》の頭上に残った王冠が放つ壮麗な紅玉(ルビー)のごとき輝きによって《王》は王たることを示しうるので、自分の王国を再建できるのである。

 みずからの王国を再建させたこの王族の子が、危機から救う者にいとわず与える《報酬》とはどのようなものか。エジプト最後の王プトレマイオスは、父の王朝復興を叶えたはずのポンペイウスに二心を抱いて死を授けることとなったが、ここでいう《報酬》はもちろんこのようなものではあるまい。むしろ王が贈与するは病苦除かれた壮健、なんらも負うところのない命の加護、真の愛に満ちた*豊穣の角(コルヌコピア)、すべて冴えもせぬ平凡なものでなく、いずれも活力たかめる生命の光彩そのものである。かようなものを欲しがりもせぬような愚か者があろうものか、《王》の元までも泳ぎ行かず、その手を引いて甲板に救い上げぬ者があろうか。しかし、この皇子を救う際に注意が必要なのは、その冠が海に落ちないようにすることである。冠を失った王は王として財産の継承権をほとんど失ってしまう。尊ぶべき*紅榴石(ピロプス)が滅してしまえば、万民の病をも癒しうる*ベゾアル石が霧消してしまうのである。これについて『薔薇園』は以下ようにアリストテレスを引いている。「石は汝自身で選べ。かくして王侯は王冠にて尊崇され、かくして医師は苦痛をいやす。そ(石)は火に近きものなり」たしかに治癒力の価値がなければ、王冠には何らの価値もない。

 救い出された王が必要とすることはなにか。まず王を溺れさせた水を排出させねばならない。そして冷えきった体を暖めるに程よい熱の風呂でかじかんだ手足を癒す。さらに適切な食事を与えて飢えを解消する。その他もし健康を害していればそれに応じた治療をなす。かくして復活とげた王には婚姻が待っており、しかるべき刻には待ち望まれた子孫が誕生する。それは美しくも多産であり、力も富もあらゆる先祖たちを凌駕し、戦によらずして人道にて、野心によらずして雅量にて、敵を征服する。その包容力は生得のものなのである。

 
 
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